「竹下村誌稿(解読版)」拾い読み 6 安政大地震の竹下村
今日は広島原爆投下の日、往時は、こんな暑さの比ではなかったはず
2025.8. 6
安政元年11月4日、後に「安政大地震」と呼ばれる地震が東海地方を襲った。228頁に、地震の様子が簡単に記されている。安政元年は「安政大地震」がもとで11月27日改元されたので、正しくは嘉永7年に安政大地震は起きたことになる。
十一月四日、遠、駿、参の地、大地震あり。この日曇天、午前八時より午後一時に至る、強震数回あり。上を下へと混乱し狼狽して、戸外に出でしも、歩行すること能わず。ただ地上に転輾するのみ。
大地裂け、泥水を噴出し、家屋倒潰し、火災を起こし、壁崩れて黒煙を揚げ、人畜圧死するものありて、物凄く、その余震も五十余回に亘り、轟々(ごう/\)として地鳴り、或るは三十分、或るは一時間毎に震動せしを以って、家屋内に住するものなく、皆な竹林内に掘立て小屋を結び、数十日間、老幼相擁(よう)してこれに住せり。実に目も当てられぬ惨鼻と云うべし。
※ 惨鼻(さんび)- 酸鼻。むごたらしくいたましいこと。
幸いに本村に死傷なし。されど瓦を崩し、柱を摧(くじ)き、戸障子を破りし位の家は、その数を知らず。今なお編者の家にも、その前年新作せしと云う、破れし中戸の存せるを見るも、推想し難きに非ず。
※ 中戸(ちゅうこ)- 中位の大きさの家。
※ 推想(すいそう)- あれこれと想像をめぐらすこと。
竹下村は大井川の河原に出来た村で、どうやら周りの地域よりも揺れ方が弱かったのであろう、死傷者を出さなかったとある。著者、渡辺陸平氏の家は、その前年に建てた家だというが、建物は今も渡辺家の御子孫が現住されている。
掛川城下の被害状況と比べると、被害が随分少ないと思う。最も人家の立ち並ぶ掛川城下では、地震の後に起きた火災の被害が大きかったという。
河原で石混じりの地盤は地震の揺れを一部吸収するのであろうか。そこへ住む者の実感として、どうも震度が一段階位周りよりも低い感じがする(根拠はない)。だれもそんな説明をしてくれないけれども、東日本大震災の時も、夫婦で昼寝していて、揺れに気付かなかったと言うと、皆んなに笑われるが。
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