「蕉園渉筆」(漢文)を読む(50)相良領主

裏の雑木林(元畑)次郎柿がたくさん赤らむ、但し小さい

裏の雑木林(元畑)渋柿もたくさん実る
これは干し柿作りで忙しくなりそう

2026.9.5

もう柿の季節になった。金谷宿大学もまきのはら塾も年度末の発表会の準備が始まっている。季節の移りは飛ぶように早い。

蕉園渉筆」解読の続きを載せる。

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(原文)

相良領主

相良之郷不詳上代、慶長之末為公邑、為紀侯或駿河亜槐封邑、寛永中又為公邑、

自正保元年為松平豆州采地、慶安二年至天和元年井伊伯州、天和二年為土屋相州、

貞享二年為太田備州、宝永二年三年内藤紀州、四年至延享三年凡三十有七年、

本多越州四年、太田摂州、後不詳年、為本多城州、宝暦年坐金森氏之事国除、

為公邑者四歳而為田沼氏采邑、至天明六年有罪国除、又為公邑、寛政六年収

一橋邸、甲之封邑三万石換賜於相良、文政六年収今田沼侯、所新賜奥越一万石、

相良旧封賜邸以摂州之一万石、(所)余猶二万石云

(解読)

相良領主

相良の郷(ごう)、上代詳(つまび)らかならず。

 慶長の末、公邑(こうゆう)になり、紀侯(きこう)、或は、駿河亜槐(大納言)

  封邑(ほうゆう)になり、寛永中、また公邑(幕領)になる。

 正保元(1644)年より松平豆州(ずしゅう)采地(さいち)

 慶安二(1649)年より天和元(1681)年に至り、井伊伯州(いいはくしゅう)

 天和二(1682)年に土屋相州(つちやそうしゅう)になる。

 貞享二(1685)太田備州(おおたびしゅう)になる。

 宝永二(1705)年三年内藤紀州(ないとうきしゅう)

 (宝永)(1707)より延享三(1746)年に至り凡そ三十有七年、

  本多越州(ほんだえっしゅう)四年、太田摂州(おおたせっしゅう)

 後不詳年(寛延二年(1749))、本多城州(ほんだじょうしゅう)になる。

 宝暦年(宝暦八年(1758))金森氏の事に連座し国除(くによけ)、公邑(幕領)

  なるもの四歳(年)にして、田沼氏の采邑(さいゆう)となる。

 天明六(1786)年に至り罪有りて国除(くによけ)、又公邑(幕領)となり、

 寛政六(1794(甲寅)) 一橋邸に収まる。(きのえ)の封邑(ほうゆう)三万石、

  相良を換え賜わる。

 文政六(1823)年、今、田沼侯に収まる。新しく賜わる所、奥越一万石、

  相良旧封、邸(一橋邸)、摂州の一万石を賜わる。余り、なお二万石の所と云う。

(語注)
※ 公邑(こうゆう)➔ 幕領。江戸幕府直轄領。
※ 紀侯(きこう)➔ 紀州侯。紀州藩初代藩主、徳川頼宜侯の紀州移封前の領地。
※ 亜槐(あかい)➔ 大納言の唐名。駿河大納言と呼ばれた家康の孫、徳川忠長。
※ 封邑(ほうゆう)➔ 封じられた領地。封地。
※ 松平豆州(ずしゅう)➔ 松平伊豆守信綱。江戸時代前期の大名で老中、「知恵伊豆」と
 して知られる。
※ 采地(さいち)➔ 領地。知行所。
※ 井伊伯州(いいはくしゅう)➔ 井伊伯耆守直武。遠江掛川藩の第二代藩主。寛文十二
 (一六七二)年、父直好の死で後を継ぐ。
※ 土屋相州(つちやそうしゅう)➔ 土屋相模守政直。駿河国田中藩主。老中。
※ 太田備州(おおたびしゅう)➔ 太田備中守資直。駿河国田中藩初代藩主。
※ 内藤紀州(ないとうきしゅう)➔ 内藤紀伊守信輝。短い期間、駿河国田中藩主。後、
 越後国村上藩の第二代藩主。
※ 本多越州(ほんだえっしゅう)➔ 本多越中守忠如。遠江国相良藩主。日本左衛門の
 取締りに、延享三(一七四六)年なおざりがあったとして、陸奥泉藩へ移封。
※ 太田摂州(おおたせっしゅう)➔ 太田摂津守資俊。遠江掛川藩藩主。寺社奉行。
※ 本多城州(ほんだじょうしゅう)➔ 本多長門守忠央。山城守は父忠次の官位。
※ 金森氏の事 ➔ 郡上一揆などの失政により金森家は改易となった。
※ 国除(くによけ)➔ 勲功により得た封国の取り消し。
※ 采邑(さいゆう)➔ 領地。知行所。

(続く)

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