道しるべを拓本してみれば
道しるべの拓本
「左 金谷 右 日坂」
金谷、日坂の間の、少し下に「道」と見えるが、
「左 金谷 右 日坂」
金谷、日坂の間の、少し下に「道」と見えるが、
2026.10.18
番生寺の大井神社の秋祭り、今夜は宵宮で騒ぐ音が、近くの再製工場の壁に反響して、聞こえてくる。暑い夏と長雨の後、漸く遅い秋がやってきた。
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横岡新田の昔あった火の見櫓に近くに、小さな石の道しるべがある。いつ頃置かれたものかは知らないが、今では彫り込まれた文字も読めない。
金谷広報誌「ほほえみ」令和8年8月号「うまちゃんの「五和日記」」の中に、
「横岡消防詰所横に、南を向いた道標があり、『左金谷、右掛塚』の文字が刻まれています。ここから金谷街道になります。つまり北へ向えば、ここから川根街道ということです。」
と書かれている。金谷宿大学の歴史のS教授に、金谷の道しるべに「掛塚」が出て来るのは如何にもおかしい。風化して判読不能とも書いてあるから、間違いではないのか、と指摘されて、N氏が、それでは拓本を取ってみようと、約束された。
昨日、N氏と現地に出向き、側で洗車している人に断り、拓本を取った。簡易な拓本で、道しるべの表面に専用の和紙を広げ固定し、上からカーボン紙で擦るだけで、拓本が取れる。道しるべを汚すこともない。結果は写真のようになった。
これをどう判断するかは、視る人によるであろうが、側の家から年配の女性が出て来られて、確かに、左金谷、右日坂と書かれていると聞いていると話された。目の前の家と家の間の、人がやっと通れるほどの細道が、昔、日坂へ行く道であった。その遥か先に、西原が見えている。あの西原を登って、日坂へ通じる道があり、江戸の初めには、島田宿が水害で全滅したとき、11年間東海道として利用されたこともある。
水曜日には、金谷郷土史研究会で、その11年間の東海道の島田側の話を、会員が発表してくれるという。楽しみである。

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