自分古文書(6)「奇壁」11(最終回)
2025.9.8
写真は往時走っていた気動車の急行但馬号で、播但線経由で神戸へ行く。もっとも写真の場所は玄武洞ではない。
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目が覚めたとき頬に何物かを感じた。手に取ってみると比較的大型の黄金虫が手から逃れようと懸命にもがいている。仙作はそこに自分を見出して急いで黄金虫を空高く投げ上げた。放物線の途中で羽根を開いた黄金虫は慌てて飛び去った。仙作は腹の底から湧き上がって来る可笑しさを吐き出すように笑った。
いつの間にか太陽は川の向こうの山の端に傾き、白い雲を茜色に染めた夕陽に奇壁も赤々と輝いて、仙作を祝福しているように見えた。仙作は赤い奇壁に向かって大きく伸びをした。この数ヶ月、見せたことのない晴れやかな顔だった。幾多のひぐらしが夕風を呼ぶような爽涼とした声を競い合っていた。
「有り難う」
仙作は奇壁に向かって大声で叫んだ。奇壁は面食らったように、その声をばらばらに反響した。
「そうだったのか。富久子はその意味で『卑怯よ、意気地無しだわ』と忠告してくれたのか」
桟橋には人待ち顔の船頭が煙草を燻らしていた。
「もう帰って来んさる頃だと思って舟をこっちへ廻しといただ。さぁ、乗っとくれぇ」
仙作は軽快に跳び乗った。
「学生さん。あんたゞろう。さっき大声を出していたのは」
仙作は楽しくて仕様がないように喜色を満面に湛えていた。
舟が河の中央に出ると、夏の盛りとは思えないほど清涼とした風が仙作の綻んだ頬を撫ぜた。
「学生さん、いやににこにこしとるだぁねぇか。何ぞえゝことでも有りんさったんけぇな」
「えゝ、まあね。小父さんは毎日、舟を漕いどられるんですか?」
「いゝや、これは部落のもんの交代だがな。今日みてぇな日こそ稼ぎはすくねぇけど、日曜日、それも春や秋だってみんせぇ、一日で二、三千円くれぇ、訳なく稼げるわ。稼いだ分はみんな貰えるしけぇに、ちょっとしたアルバイトだねぇけぇな」
その間も竿は勢い良く上下する。
「そうそう、小父さん、玄武洞の岩が上から落ちて来ることは無いんですか。今にも落ちて来そうな岩があったけど」
仙作は『奇壁の神』が金棒を下ろしたとき、数個の岩が落ちたのを思い出し尋ねた。
「戦前にこの一帯に大地震が有って、その時にはかなり崩れたけど。そうだなぁ。冬の寒いときなんかに落ちることがあるみてぇだけど、普通なら落ちれへん。まんだ落石で怪我をしたなんていう人は聞いたことがねぇもんな」
舟を降りて茶店まで行くと、爺さんがアスファルト道路に水を撒いていたが、仙作に気付いて呼びかけた。
「やあ、ゆっくりでしたねぇか。どねぇでした。玄武洞の印象は?」
「自然って素晴らしいなぁって思いましたよ。それに較べると自分の心が何と狭く、何と小さいんだろうと思えて、自分も自然のように大きな広い心の持ち主になろうと決心して来ました。本当に人間の心を変えるほど雄大な眺めでした」
「ハハハ、やっぱり学生さんらしく理屈をつけて見とりんさるわ。よくお客さんにそんな質問をしてみるんだけども、皆んな素晴らしかったっていうだけ、そこへいくとあんたはやっぱり違ううぇな」
「いや、それほどでも。それはそうと富久子さんは?」
仙作は彼女に一言お礼が言いたかった。案内とそれからもう一つのことについて。
「何かあんたぁ。むっつりして帰って来ましてな。二階に上がったまんま、水撒け言っても降りてくれへんし、何かありましたんけぇな」
「いゝえ、別に。たゞ昼寝して帰りたいからと言って先に帰ってもらったりしたものだから、気を悪くなさったんでしょう」
「本当に我が儘な娘でどうも仕方がありませんうぇな」
仙作の心をふと過った気掛かりをよそに続けた。
「今夜、あんたどうしんさる。K温泉で泊まるなんていったら、物凄ぇことお金取られるし、いっさ、家に泊まりんさったらどねぇでぇな。何も出来れへんけど」
「どうも有り難うございます。けど、もうそろそろ来るはずの汽車で帰ろうと思いますから」
仙作は見ず知らずの自分に昼食を提供したのみならず、泊まって行けとまで言ってくれる爺さんの底抜けの親切が本当に嬉しかった。
「本当けぇ。もう帰りんさるんか。ほんなら無理に引き留めるわけにもいけへんなぁ」
仙作は別れを告げると、数時間前には熱気でもって彼を苦しめたアスファルト道路を爽快な気持ちで横切り石段を登った。夕陽は既に沈み、わずかに空の雲だけが茜色の名残を留めていた。仙作の心に淋しそうな富久子の姿がふと掠めたが、すぐに明日からの堂々たる生活に心は移って行った。
汽車はこの田舎駅で数人の乗客を吐き出し、代わりに数人の客を呑み込むと汽笛とともに発車した。茶店の二階から汽車を見送っている一人の娘の存在に、仙作が気付くわけもなかった。仙作の眼に映っていたのは、ようやく降り始めた夜の帳の中、洋々と流れるM川と、対岸の山中にほの白く浮かぶ二つの奇壁だけだった。
しばらくして娘の両の眼に光った二粒の涙には、うす闇の中にどこまでも続く二本の空しい線路だけがいつまでも映っていた。
完(昭和40年12月)
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