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8月, 2025の投稿を表示しています

自分古文書(6)「奇壁」7

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昔の渡し舟 (ネットより写真拝借) 玄武洞の渡し舟ではない    2025.9.1   「奇壁」の以前に、玄武洞の写真のような渡し舟には乗ったことがあったのだろうか。確か竿で舟を進めていたように記憶する。ならば乗ったことがあったのか。玄武洞には何回か行ったことがある。しかし、対岸を通れば渡し舟は利用しない。かくも、人の記憶などはあてにならない。書き残したものだけが確かである。   「奇壁」を続けよう。   ******************************************************  店前まで出ると、外はいよいよ暑さを増してアスファルト道路は今にも沸騰しそうであった。靴べらを使っている仙作の背に向かって爺さんは言った。  「娘に案内させますしけいに、ちょっと待っとくれんせぇ。案内するほどひれぇところでもねぇけど、一人で行きんさるよりはえゝだろうしけいに」  「どうも重ね重ねあいすいません」  仙作は爺さんの気質が良く解ってきたので拒まなかった。  「なぁになぁに。富久!富久はおらんか!」  廊下をぎしぎしいわせながら早足でやって来た富久子は戯けて暖簾から首だけをぴょこんと突き出した。  「なんでぇな。お父ちゃん」  「学生さんを玄武洞に案内したげんせぇ」  「でも‥‥‥」  「デモもストもねぇ。今から向こう岸へ渡りんさるそうだしけぇに、えゝか」  富久子は可憐に赤らめた顔を下げて頷いた。  富久子の案内で例の細道を通って渡し場へ出た。渡し舟は見えなかった。  「ちいと間、待っとったら、こっちに来るしけいに」  「舟は何艘あるの?」  「二艘。でも今日は一艘だけみたいだわ」  二人の立っているところはコンクリートの小さな桟橋だった。仙作は足元に眼を落とした。垂直なコンクリートの壁にひたひたと小波が押し寄せて来る。水際まで青い水草がコンクリートにこびりついている。そこではすでに人工物が自然の攻勢に退却を始めているのだ。仙作は自然に対して声援を送りたい気持になった。  「魚がおるわ。ほらあそこにようけぇ」  富久子の指差す方向を見ると黒い魚が沢山動いている。たまに白く光るのは魚の腹であろう。仙作は小石を拾い群れの中に投げ入れた。魚の群れは一瞬...

昔、昆虫少年だった(2)夏はキリギリス

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  夏はキリギリス   『ぎーす、ちょん』と鳴く  (ネットより写真拝借) 昔はコオロギのことをキリギリスと呼んでいた  2025.8.31     子供の頃、夏にキリギリスが鳴き始めると、必ず捕りに行った。はじめは次兄に付いて行って、そのうちに一人でも行くようになった。 キリギリスは昆虫採集ではない。飼うのが目的である。父の日曜百姓についてゆくと、畑は円山川の土手の近くだった。土手まで行けば、あちこちでキリギリスの鳴き声が聞こえて賑やかである。縄張りを主張するのか、メスを誘うのか。そう、鳴くのはオスだけで、目的はキリギリスのオスである。メスはお腹から剣(産卵管)が突き出ていて、すぐに分かる。  土手の背の高い草むらで鳴き声がする。近づくと声が止む。人の気配を察するのであろう。それを、さらに近づけば、長い後ろ足で跳んで逃げてしまう。そうなると、もう見つけることは難しい。 鳴き止んだら、そのまま動かずじっと待つと、再び鳴き始める。声の場所に目を凝らすと、ススキの葉に居た。羽根を振わせて「ぎーー」と鳴く。必ずしも「ちょん」が入るわけではないというが、自分のオノマトペは「ぎーす、ちょん」である。  虫網を振るって捕まえるのであるが、相手はなかなかすばしっこい。何度か失敗し、新たな声の方へ行く。何とか捕獲したキリギリスは、虫かごに入れて持ち帰る。一匹だけでよかった。虫がごのまま、家の小さな庭に面した軒先につるす。しばらくして、慣れてくると鳴き始める。 「ぎーす、ちょん」ひと間おいて 「ぎーす、ちょん」。夏を感じる。キリギリスの鳴き声が無くても夏なのだが、我が家にとっては、その声が夏の象徴であった。 エサは、スイカの食べ残し、キュウリ、ナスなどを与えて、ひと夏を我が家で過ごして、鳴き声を聞かせてくれた。  我が故郷の兵庫県豊岡市ではこの夏の猛暑日(最高気温が35度以上の日)が40日を超えて、1918年の統計開始以来、猛暑日の日数が最も多くなったと聞く。これはまだ、夏がそれほど暑くなかった頃の話である。いま、故郷のキリギリスたちは元気にしているだろうか。 「キリギリ元気でス」、ならいいが。

人口減少問題を考える(1)年功序列から成果第一へ

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   バブルの象徴 「ジュリアナ東京」の狂乱    (ネットより写真拝借) 2025.8.30       この頃、日本の人口がすごい勢いで減少していると聞く度に、政治家の無策ぶりに腹を立てている。このような人口減少になることは、予測されていたことで、予測通りの結果となっている。口では人口減対策は緊急の課題だと言いながら、何も対策をしていないと同じことである。 東京への一極集中化がいよいよ進み、地方の過疎化はどんどん進み、ただただ、我がもの顔の熊の進出に手を拱いている。地方の自治体は、他の自治体からの移住促進に力を入れているだけで、日本の人口減対策にはなっていない。  このような事態を招いた原因を考えるに、その主原因に、日本の企業がグローバル化の名のもとに、江戸時代から営々と築いてきて、日本発展の基となったきた年功序列の制度を捨てて、成果第一主義に転換したことが挙げられよう。 30年前、アメリカなどからグローバル化をと急き立てられて、日本は、成果第一主義が何たるかを十分理解しないで、成果第一主義に切り替えてしまった。勤労者もそれが何を招くかを考えずに、若い人は自分たちの給料が上がると期待した向きもあったかもしれない。 しかし、成果第一と言いながら、だれが成果を計るのか、当時から疑問に思っていた。年功序列とは大過なく年を過ごしたことを成果とみている。誰かが恣意的に計る成果ではない。見方を変えれば最も公平な成果主義といえたのではないだろうか。 自分の古くからの友人で、大手の研究所へ長年勤めていたが、晩年御家騒動に巻き込まれ、負け組の一員とみなされて、早期退職に追い込まれた。このようなことが、成果第一主義をとる大手で行われるのである。何が成果なのか、首を傾げるしかない。 近頃の若い人は、すぐに転職をしてしまうと、企業はいうけれども、年功序列で長く勤めれば年々給料は上がってゆくならば、転職することはない。年功序列を捨てた結果だと思うべきだ。この頃は、現有社員よりも新入社員のほうが給料が高いというケースもあるという。何が成果第一なのだろう。 成果第一主義に切り替えて、最も得をしたのは、人を雇う企業側で、成果第一主義の名のもとに、年々給料を上げる必要が無くなった。当然、内部留保が増えるわけだが、企業は...

町内犬「ゴロ」のこと

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  ゴロはこんな犬だったような気がする  (ネットより写真拝借) あんまり可愛くないなぁ     2025.8.29     我が故郷の町内は、北の角から南の角まで、十数軒ずつの町家が向かい合っていた。その一区画は、寺区一隣保、ニ隣保と呼ばれていた。今では考えられないことであるが、その一区画に、小学生の頃、町内犬「ゴロ」が居て、北の角から南の角まで約200メートル足らずの間を守備範囲として、日中警備をしていた。 隣町の火薬店の居宅に飼われていて、朝夕食もそこで済まし、昔のことゆえ、ロープで繋ぐことなどしてないから、 我が町内に 朝出勤してきて 警備に付く。だれもそんな指示をしたわけではなく、つまりはゴロ自身の思いで行っているのである。 ゴロは、茶色の毛のやせ形、耳が垂れ、目も垂れた、鼻の周りが黒い、昔はどこにでもいたような 雑種の中型犬であった。   我が町内には、当時子供が多く、まだ犬を飼っている家などなかったから、いつでも誰かがゴロの遊び相手になってくれた。当時はほとんど自宅にいた奥さん方も、たまにはゴロに余り物をくれたりした。そして、いつの間にか、我が町内を昼間の住みかとして、住人の顔をすべて覚えてしまった。 常に出入りしている郵便屋さん、出前の店員、町内の家へ来る知人、友人なども、ゴロはよく見分けて、それ以外の不審者を見ると、近くに寄って吠える。吠えながら付き従って、町内を抜けるまで吠え続ける。これが 町内犬「ゴロ」の町内 警備であった。   町内を通り抜けるだけの人には、えらい迷惑な話であるが、ゴロは吠えるけれども、決して攻撃的ではなく、町内を抜けるとぴたりと鳴き止み、子供たちのところへ戻ってきた。そんなゴロについて、誰一人苦情をいう人はなかった気がする。これ「犬徳」という奴であろうか。 そのお蔭か、我が町内にはコソ泥や押し売りなど、ほとんどなかったような気がする。ゴロのおかげだったのかもしれない。 その内、何年かすると、町内にゴロを見なくなった。自分たちも中学生になって忙しくなっていた。

自分古文書(6)「奇壁」6

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  北宋画といえばこんな掛け軸か 「木の葉のように舞う一艘の小舟」はいないが  (ネットより写真拝借) 2025.8.28     午後、会社の後輩、K氏が見えた。顔を合わすのは久しぶりである。いつもは会社関係者の訃報を小まめに連絡してくれている。「頭が薄くなったねえ」一声がこれでは失礼な話だが、第一印象で気付いてしまったから、申し訳ない。 K氏は現役を終えて、監査役として、まだ半日くらい出勤しているという。若いと思っていても、もうそんなに年が経ってしまったのだと改めて実感する。  色々近況を話し、「竹下村誌稿」を会社関係の皆さんに紹介するように頼んだ。このブログ「かさぶた残日録」についても宣伝を忘れなかった。 自分の体験から、退職後に何か熱中できるものを持つべきだと、ついアドバイスをしていた。大きなお世話だったかもしれない。  「奇壁」を続けよう。  *************************************************************     「学生さん、実は息子に歳恰好といゝ、あんまり似とるもんだしけいに、つい懐かしゅうなって、ほんであんたに『昼飯を』って言ったんですがな。あの親不孝もんが、今頃どこをほっつき歩いとんだか」  「父ちゃん、悪いがな。そんなことお客さんの前で」  富久子の母は爺さんを軽くたしなめた。その口調に夫婦の息の疎通を感じて仙作は箸の手を止めていた。  「息子さんがどうかなさったんですか」  富久子の母はそれみろと言わんばかりの視線を爺さんに送って、仙作の方に移した。  「実はこの子と四つ違いの兄なんですけどな」  彼女は富久子を顎で示して続けた。  「さあもうかれこれ三年ほど前になるけぇな。高校を出てせっかくS市にえゝ就職口も出来たのに、一年も立たねぇ内に、あんたぁ。都会に出てぇなんて置き手紙して家を飛び出しちまったんだうぇな。あはぁたれが。何でも大阪の方で職を見つけたっちゅう電報みてぇな手紙を一通、寄越した切りで、それ以後便り一つくれまへんだぁで。都会ってそねぇ、えゝとこですけぇ」  「え ‥‥‥ え、いやまあ」  仙作は言葉を濁した。  「お母ちゃん。久松さんは都会が嫌にな...

自分古文書(6)「奇壁」5

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なまずの蒲焼 (ネットより写真拝借)   ただし作中のなまず料理とは違うかも 2025.8.27 子供の頃、故郷では、ウナギは一般家庭では食べることはなかった。料理屋に行けば食べることが出来たのだろうが、そんな機会があろう筈もなく、代わりに我が家では、たまにナマズを食べた。 郊外の川で取ったナマズを、行商の小父さんがよく売りに来た。お袋が思いついて、小父さんに声をかけると、門口でナマズをさばいて、骨やあらを外してくれる。料理は、うなぎの蒲焼紛いのもので、味は淡白だったように思う。生臭さを感じたことが無かった。我が家では滅多にない御馳走だったと記憶する。 ナマズをさばくのはかなり技術を要するから、誰にでも出来るということでもなさそうだ。爺さんが手を出さねばならなかったはずである。 「奇壁」を続けよう。    ***********************************************************   「気の利かんやつだ。それにあんたぁ、不器量もんで。誰に似たんか知らんけど。嫁に貰い手があるかどうか心配しとるんですがな。あれでも本人は自分で見つける なんて言っとるんですだぁで」   富久子は爺さんとあまり似ていないから、富久子の母が容易に想像出来るような気がした。またこういう種の謙遜をどう処理すべきか、仙作は知らなかった。しかし沈黙がその場に適当でないことは知っていたので無理をして話題を他に取った。  「小父さん、あの玄武洞ですけど、何時頃天然記念物に指定されたんですか」  「さぁあれは何時だったか、大正時代だったけぇなぁ。何でも東京からえれぇ博士とかいう人が来なってな。何だか調べよんなったけど、その後間もなくあそこに『天然記念物玄武洞』って看板が立ったことを覚えとる」  「ほう、そうすると随分昔なんですね」  「そうだなぁ。あの頃はわしも若かったもんなあ」  爺さんは眼をしょぼしょぼさせて昔は良かったと言わんばかりの懐古的な顔付きになって話を続けた。  「天然記念物になるまでは、あの石が石垣や沢庵石にいゝなんて言いよって、このあたりも石切場としてよう賑わったもんだけど、それ以後は取ったらいけんということになってすっかり寂れちまったんだがな」  「そうするとこゝ...

自分古文書(6)「奇壁」4

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       50年前の学生デモ (ネットより写真拝借)   まだヘルメットにゲバ棒は見えない 2025.8.26   自分の学生時代は、60年安保と70年安保の間、そろそろ70年安保への動きが出始めた頃で、学生運動盛りの時代であった。 縁があって、この頃、大学の50年近く後輩の、まだ卒業して間がない、孫のような青年と話す機会があった。 同じ大学の、学部名は変わったが、似たことを学んだと聞いて、自分の時代は大学が学生に占拠されて、講義ができない状態が続いたと話すと、「私たちと一緒ですね」と言う。聞けば、彼らの大学生活は、コロナ真っ盛りで、講義はリモートばかりで、大学に行くことすら稀であったようだ。 そう言う発想はしたことがなかったが、確かに彼らの大学時代と、自分たちの大学時代には、共通点があったのかもしれない。 さて、「奇壁」の主人公も、まともな大学生活を阻む学生運動に、多分に嫌気がさしていたようだ。 「奇壁」を続けよう。   ************************************************************       今や都会にはほとんど人の住む余地が無くなっている。何も住宅事情を言っているのではない。環境そのものが凡そ人間離れしているのだ。左右の耳を貫通させてしまう警笛や工場の機械音、眼を焼き潰す刺激的な広告の氾濫、肺の中を真っ黒に塗り上げる排気ガスや煤煙、もし人が孤立するやたちまち押し潰してしまう車の大河や雑踏。どこに人間が住めるというのか。  仙作の大学のある都市も例外ではなかった。そして唯一のオアシスと考えていた大学も、今や毎時間のように怒号や罵声が乱れ飛びアジビラが空を舞う。かくして教室は競馬場のごとくなり、無視されたビラが落ち葉のように床を埋め尽くす。塀という塀、壁という壁、あるいは庭木さえも貼られたビラで貼りぼてと化す。大学におれば明日にでも革命が起こりそうに感じ、一歩学外へ出ればあらゆるものが命を狙っているとの妄想さえ起こる。入学して一年も立てば向学心に燃えた学生の心はアジられ洗脳され赤くなるか、あるいは黒い空気に染められて真っ黒になってしまうのだ。それらの迫害や誘惑に対して多くの学生たちは逃避を試みる。スポーツを大学...

自分古文書(6)「奇壁」3

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   現代の玄武洞渡船場 (ネットより写真拝借)   円山川の向こうの山が玄武洞   2025.8.25 元々山が低くて傾斜が緩い円山川はこの辺りまでくると、日本海まで緩やかな流れとなって、川幅はゆったりとしている。ご存じの通り、太平洋岸と違って、日本海は潮の満ち引きはわずか数十センチしかないから、海に近くても水位はほとんど変わらない。渡し舟にとっては良好な環境であった。川の向こう岸、小山の中腹、わずかに山肌がみえるあたりが玄武洞である。屋根が見えるのが、その後に出来た、 玄武洞ミュージアムである。 **************************************************     爺さんはわずかに腰を屈めて暖簾を潜り奥へ消えた。残された二人の間に重苦しい沈黙が訪れた。ようやく去りかけていた夏の暑苦しさが再び迫って来た。さらにK温泉へ行く数台の観光バスが列をなして表の道を通ると、茶店は地震とはまた異質の貧乏ゆすりをやってのけ、舞い上がった埃が簀を通り抜けて茶店の中まで侵入してきた。  「埃が、すいません‥‥‥どこの大学ですか」  「あっそうですね」  仙作は定期入れを出し、中から1枚の名刺を娘に渡した。アルバイトの時に必要で何枚か作っておいた手書きの名刺だった。  「F大学法学部、えゝと『くまつ』、いや『ひさまつ』って読むんですか。久松仙作さんって言うの」  名刺から眼を上げた娘の顔を初めて真正面から見た。列車内でちらっと見た感じに間違いは無かった。これではお世辞にも美人だとは言えない。その娘に恋愛してようやく十人並くらいに見えるという容貌だ。鼻は小さく日和見的で、それを補うように口は大きかった。耳は裏返っており、耳たぶは有るか無しかの存在にすぎなかった。眉は棚引く霞か雲と言えば体裁は良いが、うっすらと八時二十分を指している。しかもそれらの各部分が丸い輪郭の中に雑然と同居している。しかし美神はどんな女性も見捨てはしなかった。この娘の美の分配は眼にあった。汽車の中でも感じたように清らかに澄んでいた。  〈人跡知らない山奥で緑の木々だけを水面に映す湖のような清廉さ、朝露に濡れた竜胆の花のような気高さ、そして苔生した岩室のイモリの住む泉のような神秘さよ〉  仙作は自...

母校の豊岡小学校が無くなる?! 5 子供スキー場から、プールへ

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昨夜のカラフルサラダ 下からレタス、キャベツ、タマネギ キュウリ、トマト、コーン、マグロツナ  味付けはお好きに  2025.8.24   小学生の頃、故郷の我が家から50メートルほど南に、 スキー場と呼ばれた場所があった。道路に沿って50メートルほど、高さ2メートルほどの土留めのコンクリートの壁が続いて、 土留めの上に上ると一面に土の斜面が20メートルほど下って、平地に土のバレーコートかテニスコートのようなものがあり(戦前は土俵があったと聞いた)、その向こうに豊岡小学校の グラウンドがあった。グラウンドとの境には、植木や鉄棒があって仕切られていた と記憶する。右手のグラウンド角には野球のバックネットが、  〕 状にあった。二本松とは対角線上の反対の角である。つまり、スキー場を越して行けば 、学校までその程度で行けた。 斜面は平らではなくて、畝のようなわずかな凸凹が斜面に沿ってあった。戦時中はサツマイモ畑になったと、聞いたことがあった。 さて、スキー場と呼ばれた斜面では、雪が積もると凸凹が隠れて、子供たちはその上をスキーやそりで滑って遊んだ。子供にとっては、かなり長い斜面だった。しかし、年々雪の積もり方が減って、スキーをすることも少なくなった。 先の戦争中は、空襲警報の度に、母と兄二人は スキー場の土留めコンクリート壁の道路側に掘られた町内の防空壕に避難したという。(自分はまだ生まれていなかった)しかし、豊岡には警報は出ても爆弾を落とされることはなかったため、避難するのは我が家だけだったという。父は見天所に詰めていて、警報を出すほうだったので、警報の時はいつも不在だった。当然、警報が出たら必ず防空壕に避難するように、母と兄たちに厳命して出かけていた。思うに、豊岡は舞鶴の軍港などを爆撃する米軍機の往路に当たっていたので、米軍機が通っても爆弾を落とすことはなかった。これが復路であったら、米軍機も帰還に身軽になるため、余った爆弾を捨てるように落とすこともあっただろうと思う。   戦後、 コンクリートの壁の脇では、正月十五日、町内のどんど焼きが行われた。街中だから大きな火には出来ないが、正月飾りや書初めの反故紙などを燃やし、餅や サツマイモ などを焼いたように覚えている。 現在はスキー場一帯に小学校のプールができたが、我々が卒...

自分古文書(6)「奇壁」2

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  現在のJR山陰線玄武洞駅 (ネットより写真拝借) 自分の記憶と大分違うが  2025.8.23 最近、数独にはまっている。昨夜、再難問をやっていて、睡眠時間を減らした。これでは数独ではなく、「数毒」だ。 JR山陰線の玄武洞駅はこんなだったかなぁ。何しろ50年前だから随分変わったと思うが。ともあれ、「奇壁」の続きを掲載する。当時書いたままで、一切触ってないので、表現に問題があるかもしれないが、悪しからず。  *****************************************************    「随分お元気そうですが、お爺さんはお幾つになられます?」  「なんぼぐれぇに見えますいな。これでもあんたぁ、あんたぐれぇな息子が一人と、今高校へ行っとる娘がありますんだぁで」  「ほう。それじゃ、まだお若いんじゃありませんか」  「そうですがな。これでもあんたぁ、まだ七十前ですんだぁで」  「それじゃお爺さんはいけないな。何と言うかな? 小父さん‥‥‥小父さんはずっとこゝに住んでいらっしゃるんですか」  「小父さんはよかった。ハハハ ‥‥‥ 」  仙作は突然、去年の暮れに脳溢血で他界した父を思い出した。父はよく肥えていたから、この爺さんほど皺は無かった。話し方も全く違い、この爺さんのどこを捜しても父の面影を見出すことは出来なかった。しかし爺さんが声を上げて笑ったとき、あの何の屈託もない晴れやかな笑い声と幼児のように爽やかな笑顔に父の面影を見たのであった。  「わしゃあんたぁ、こゝで生まれて裏の川の水で産湯を使ったぐれぇだしけいに死に水もこの川の水にしようと思っとるぐれぇですがな」  遠くから夏の重い空気を押しのけ押しのけ走って来た汽車は茶店より一段高い駅のホームに入って止まり、すぐに慌たゞしく発車して行った。  「十一時四十五分の上りだな。学生さん、昼はどうしんさる。見たところ弁当持って来とんなれへんようだし」  「おや? 僕が学生だって良く解りましたね」  「それゃぁ解りますうぇな。今頃あんた、ぶらぶら出来るのは夏休みの学生さんぐれぇなもんだがな」  「いやぁ、ぶらぶらとは手厳しい」  仙作は爺さんと話しながら田舎の親類へでも来ているような錯覚に陥っていた。 ...

自分古文書(6)「奇壁」1

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奇壁『玄武洞』 (ネットより写真拝借) 2025.8.22 昭和40年12月1日発行の同人誌『霧』には、22頁にわたって小説『奇壁』が掲載されている。「来島義礼」なるペンネームは、どんな名前にしようかと、思い悩んだ末に「苦しまぎれ」に付けた、自分のペンネームである。舞台は豊岡市の観光スポット「玄武洞」。かつては柱状節理が表れている玄武岩を、石垣や庭石、漬物石などに利用するため採掘していた場所で、「玄武洞」と命名さて天然記念物に指定を受けたため、採掘を中止したままの壁である。洞窟は採掘しながら掘り進んでいた場所である。 今はすぐ近くまで車が入るようだが、かっては対岸の山陰線玄武洞駅で下車して、目の前の円山川を船で渡った。舟もはじめは船頭が竿を差しながら進む舟だったが、やがてエンジンがついた船となった。今も、渡し船を遊覧船として運航しているようだ。 前置きはこれ位にして、さあ、小説「奇壁」の始まりである。 **************************************************                   奇  壁                           来島義礼  川口に近いのであろうか。川幅がかなり広くなって来ている。川向こうの老化し た山並みは柔らかな起伏をなしている。川の左岸に沿って狭いアスファルト道路が 続き、その山側には単線の鉄道が平行している。仙作は鄙びた列車の数少ない乗客 の一人であった。車内には、魚の臭いと傍若無人な会話を充満させている行商人の おばあさんたち、だらしなく舟を漕いでいる会社員風の青年、無賃乗車の子供を三 人も連れた生活の疲れの色を見せる母親、そして一つ手前の駅で乗り込んで仙作と 通路を挟んだ向かい側へ慌たゞしく座を占めた女子高校生たちなどが、それぞれ無 関係に同乗していた。  仙作は三度ばかり斜向かいの女子高校生と視線を合わせた。 髪をお下げにして瞳がどきっとするほど澄んでいた。ところが何という神の悪戯で あろう。顔の他のあらゆる部分は、仕事に疲れて横着になった神様が残り物を寄せ 集めて造ったかのように、不統一で不整合だった。仙作は思わず吹き出しそうにな ってやっと我慢した。列車は一揺れして小さな駅に止まった。仙作は我に返り目的 の駅であることに気付いて慌てゝ通...

おたふく風邪と母子手帳/詐欺電話にご注意!

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    酷暑の裏の畑、ボタンクサギの花だけが目立つ   2025.8.21     一昨夜のことである。固定電話が鳴った。出ると男の声で「おたふく風邪に罹ったみたいで」という。その言い方で、息子からかと思い、疑わなかった。先ほどまで、一緒に巨人戦を見ていて、二階の自分の部屋に上がって一時間と経たない。何で固定電話に掛かってくるんだと思うが、ネット情報などで、どうもおたふく風邪の症状に近いと気が付き、うつしてはまずいと思っての電話だろうと思い込んでしまった。「おたふく風邪に罹ったことがあるか知りたいので、母子手帳はあるだろうか」と聞く。「母さんが今お風呂だから、あとで聞いてみるが、明日の朝、ちゃんと医者に診てもらえ」と答えた。「もう寝るから、また明日の朝電話する」と言って電話が切れた。息子の母子手帳なんて、もう50年以上前のものだ。 翌朝、息子が二階から降りて来て、「整形外科の予約を取ってくる」という。「おたふく風邪なら内科じゃないのか」と聞けば、「おたふく風邪とはなんだ」という。「昨夜、電話で言ってたじゃないか」と聞いても「何のこと?」というだけで通じない。あげく、「夜、夕食後一緒にテレビ見てたじゃあないか。おたふく風邪の訳がない」と言われて、ようやくおかしいことに気付いた。間違い電話か、詐欺電話だったのか。 息子が出かけて、しばらくして、おたふく風邪の主から電話が来た。間違い電話だったらと思い、「あなた誰ですか。名前は」と聞くと、黙っていて答えない。名前も言えないなんて「あんた馬鹿じゃない?」というと、「そっちこそ、馬鹿だ」と言って電話が切れた。馬脚を顕した。間違いなく詐欺電話であった。でも、母子手帳がどう詐欺に使われるのか、それが解らない。 皆さん、「おたふく風邪」と「母子手帳」の詐欺に気を付けましょう。 ********** ネットを見ると、 「おたふく風邪」と「母子手帳」の詐欺 電話の記載が、出るは出るは、ちまたで横行しているようだ。 

自分古文書(5)「囲碁談議」(『霧』穴埋め用原稿)

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 伯父の遺品の碁盤   碁盤裏側 中央の彫刻が首台 2025.8.20   写真は、昔、囲碁好きの伯父が、静岡の開業医、野竿氏から頂いた碁盤。今は伯父の遺品として我が家にある。自分が親族中、唯一の碁打ちだったからである。裏返すと、載せるには少し小さいが、伝統に乗っ取って首台が刻まれている。  大学入学後、全く未経験者ながら、囲碁部に入って、一から教えてもらい、時間がある限り、大学の生協食堂二階でひたすら囲碁を打って過ごした。囲碁部には町で打てば、四、五段の実力の猛者も先輩にいた。一年間、所属して揉まれ、一級位にはなれたと思う。だから、この頃、埋め草に囲碁を扱ったことはよく理解できる。2年になると。色々と忙しくなり、囲碁部に顔を出せなくて、やがて退部となった。  『霧』の埋め草として、『囲碁談議』は書かれた。『楽天』は自分の雅号として、この頃から使っていたようだ。内容は駄洒落で書かれているが、当時、仲間内、駄洒落は生活の一部で、四六時中ネタを考えていたような気がする。記憶にある、ありふれた駄洒落一つ。    電話が掛かってきたと呼ばれ、「電話にゃ 出んわ 」  *****************************************************                囲碁談議                            木下楽天    世の碁を知らない族(やから)に物申す。諸君は我々棋士に対して、「彼等は道楽者だ」と決め付ける。何故と尋ねて見れば、満足にその理由を答える者は皆無に等しい。中に大脳の皺が猿より三本位しか多くない奴が、問い詰められ、プレパラート上の微生物程の知識を総動員して、ずう/\しくも威厳を込め答えた。  「なんとなればだ。碁は五であって六でない。つまり ろくでなし だからだ。」  なんという軽薄な、笑止な。彼は碁の正式の名が囲碁である事を少しも知らないのだ。囲碁は一と五だから(ここで算数を講議するつもりはないが)六になる。そして彼の理論でいけばろくでなしではなくて、六でありとなり、なんとまぁ、彼は批難するつもりが逆に弁護してくれている。つまり彼等はろくでなしではないと。  囲碁は立派な芸術ですぞ!そんなにビックリする程の事もない。囲碁...

自分古文書(4)「『霧』発刊に際して」

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同人誌「霧」創刊号、表紙   同人誌「霧」創刊号、裏表紙   2025.8.19 昭和40年春、大学生になって、全く知り合いのいない静岡の地に立った。唯一、野竿さんという開業医が、昔、教員だった伯父の教え子で、医者になるために色々面倒を見たことから、自分の下宿の世話などして頂いた。だから、大学のそばに、落着き先はあった。  入学後、囲碁部に入って、講義の合間、食堂の二階で囲碁を打って過ごした。無聊のまま、夏休みの帰郷の折りに、高校時代の仲間と同人誌を出そうと思いついた。早速友人たちにハガキで呼びかけ、しかし、応じてくれたのは自分を含めて3人のみ。言い出しっぺで、自分がガリ切りなど発行の手間一切を引き受けた。ガリ版印刷で36頁の同人誌はその12月に発刊された。誌名は、同人由利氏の発案で「霧」と名付けた。「『霧』発刊に際して 」と題して、編集子の名で、以下の文を載せている。        『霧』発刊に際して     『霧』と云う単語から諸君は何を連想されるだろうか。或人はロンドンを、或人は息苦しい都会のスモッグを、或人は山小屋の朝を、或人は霧笛を鳴らし蝸牛の様に航行する船を、又或人は霧の中に背を見せて去って行った恋人の事を、とそれぞれ連想されるだろう。私にとって、  『霧』は故郷の象徴である。兵庫県の北の果ての小さな町、そこでは秋になると毎日も様に霧が立つ。霧に霞む山々、霧に漂う屋並み、そして霧が晴れ始めた時、顔を出す青空の嬉しさ、それらが次ぎから次へと、 『霧』という単語を媒介として眼底に鮮明に再現して来るのだ。 ※   『霧』はさらに心の霧をも意味する。曽て私が、各々ラベルの貼られた沢山の瓶が無秩序 に並べられている、『心の霧』という戸棚を眺めやった時、一本の瓶が特に私の注意を引いた。その瓶を手に取って、そのラベルを見ると『自己限定』と書かれてあった。私は大いに興味を懐いて、その瓶の蓋を開けてみると、一条の煙と共に人間の声が聞こえて来た。  「僕には文才が無いから投稿出来ないんだ。」  その声の何と悲しく、何と淋しく響いた事か。   ある程度の教育を受けた者なら、凡そ誰でも文章を書けない筈がない。それにも拘らず、多くの人は自らの能力を自身で限定してしまって、それが当然の様に、そ...

「助兵衛」と「コロナ」と「八紘一宇」と

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一見、秋のような、今夕の空  昼車で外気温を見たら37度と まだまだ酷暑は明けない  2025.8.18   15日、駿河古文書会があって、静岡に行った。講師は前回に引き続き、N会長である。誰もが認める、古文書解読の第一人者で、どんな講師の話よりも、初心者でもよく理解できる講義である。自分は古文書解読の講師を始めて以来、そのすべてを見習いたいと努力を続けているが、まだまだN会長には遠く及ばない。 この日の題材は、江戸時代、駿府の町方の年行事が残した萬留帳であった。その中に、駿府の商人で町方運営にも随分貢献した「助兵衛」さんの名前が度々出てくる。講師が解読をして行く中で、「すけべえ」と度々口にすることになる。ご本人「助兵衛」さんの所為ではないのだが、名前が現代では汚れてしまっているので、聞いている人たちも、十分承知のことながら、その度に心が揺らぐ。 N会長はそれを気にされたのであろう、始めから「助兵衛」を「すけひょうえ」と読まれ、最後までその読みを続けられた。「兵衛」は「ひょうえ」とも読む。 明治の海軍大将にして、その後、内閣総理大臣も務めた、山本権兵衛は「ごんのひょうえ」と名乗っていた。清廉潔白な大臣で、その後、日本海軍の気風の基を作ったと言われている。おそらく「名無しのごんべえ(権兵衛)」などと軽く扱われるのを嫌ったための名乗りだと思われる。 N会長の名前の読み替えは、そんなことを踏まえての機転だと気付いた。 言葉は元の意味とは関係なく、後の事件などによって汚されるものだと、この頃つくづく思う。まだ記憶に新しい、猛威を振るった「コロナ禍」のあと、同じコロナの名を使っていた会社などが、どれだけの迷惑を蒙っただろうことは、察するに余りある。 戦中、国威掲揚と 国民鼓舞のため、様々な事柄が使われた、「日の丸」、「君が代」などをはじめ、16日に取り上げた「八紘一宇」の言葉も利用された。それらは、敗戦とともに一転して、敗戦の象徴となって、マイナスイメージの言葉になった。 「日の丸」「君が代」はオリンピックなどの選手の活躍もあって、ようやくマイナスイメージは払拭されたようだが、 「八紘一宇」はマイナスイメージのまま、打ち捨てられている。まあ、何しろ板で覆って隠されていたのだから。 「 八紘一宇 」は神武天皇の建国の理念で、 『日本書紀』に、「八紘(...

【活動の記録】と【読了図書】7月29日~8月17日

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  静岡城北公園、ヒマラヤスギの林(15日撮影) 2025.8.17   本日分の投稿をうち忘れていて、12時直前に何とか投稿、その後手直しをする失態を演じた。今日のテーマは別のものだったのだが。失態の原因は昼寝が過ぎたことと、難解な掛川古文書講座の次回課題に取り組んでいて、時間を忘れていたことである。    この半月余では、「大学の友人との交流」、「孫たちの来金」、「女房の喜寿の祝い」、「史上最高の酷暑」などが話題となった。     ************************************************    【活動の記録】 8月01日    午後、 駿河古文書会に出席。 8月02日     午後、大学の先輩、大庭氏宅来訪。   8月03日    午後、 大学の同級生、百地氏と逢う。その後大庭氏宅へ。   8月05日   群馬県伊勢崎市 41.8度、国内最高気温を更新 。 8月06日   静岡市 41.4度、静岡県の最高気温を更新 。     8月09日   名古屋 、かなくん母子来金 。     8月10日   夜、 「蓬春」(島田の食事処)にて、 女房の喜寿の祝い 。         老夫婦、 子、孫含め9人にて。   8月11日   夜 、 昨日のお礼も兼ねて、ばら寿司を作って孫たちにふるまった。         菓子作りが趣味のあっくんがクレーブを作り、皆んなにふるまって         くれた。  8月13日     午後、まきのはら塾、「古文書解読を楽しむ」講師。 8月14日     午後、掛川古文書講座出席。 8月15日     午後、駿河古文書会に出席。 8月16日    午前、金谷宿大学「古文書に親しむ(初心者)」講座教授。            午後、金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」講座教授。   【読了図書】 読書:「わるじい義剣帖 5 ざまあみろ」...