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自分古文書(6)「奇壁」2

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  現在のJR山陰線玄武洞駅 (ネットより写真拝借) 自分の記憶と大分違うが  2025.8.23   最近、数独にはまっている。再難問をやっていて、睡眠時間を減らした。これでは数独ではなく、「数毒」だ。今朝、掛川の講演を聞きに行き、そのまま、駿遠の考古学と歴史講座を受講の予定。家に帰っている時間がないから、おむすびを持って出かける。その報告は明日になるだろう。 JR山陰線の玄武洞駅はこんなだったかなぁ。何しろ50年前だから随分変わったと思うが。ともあれ、「奇壁」の続きを掲載する。当時書いたままで、一切触ってないので、表現に問題があるかもしれないが、悪しからず。  *****************************************************    「随分お元気そうですが、お爺さんはお幾つになられます?」  「なんぼぐれぇに見えますいな。これでもあんたぁ、あんたぐれぇな息子が一人と、今高校へ行っとる娘がありますんだぁで」  「ほう。それじゃ、まだお若いんじゃありませんか」  「そうですがな。これでもあんたぁ、まだ七十前ですんだぁで」  「それじゃお爺さんはいけないな。何と言うかな? 小父さん‥‥‥小父さんはずっとこゝに住んでいらっしゃるんですか」  「小父さんはよかった。ハハハ ‥‥‥ 」  仙作は突然、去年の暮れに脳溢血で他界した父を思い出した。父はよく肥えていたから、この爺さんほど皺は無かった。話し方も全く違い、この爺さんのどこを捜しても父の面影を見出すことは出来なかった。しかし爺さんが声を上げて笑ったとき、あの何の屈託もない晴れやかな笑い声と幼児のように爽やかな笑顔に父の面影を見たのであった。  「わしゃあんたぁ、こゝで生まれて裏の川の水で産湯を使ったぐれぇだしけいに死に水もこの川の水にしようと思っとるぐれぇですがな」  遠くから夏の重い空気を押しのけ押しのけ走って来た汽車は茶店より一段高い駅のホームに入って止まり、すぐに慌たゞしく発車して行った。  「十一時四十五分の上りだな。学生さん、昼はどうしんさる。見たところ弁当持って来とんなれへんようだし」  「おや? 僕が学生だって良く解りましたね」  「それゃぁ解りますうぇな。今頃あんた、ぶらぶら出...

自分古文書(6)「奇壁」1

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奇壁『玄武洞』 (ネットより写真拝借) 2025.8.22 昭和40年12月1日発行の同人誌『霧』には、22頁にわたって小説『奇壁』が掲載されている。「来島義礼」なるペンネームは、どんな名前にしようかと、思い悩んだ末に「苦しまぎれ」に付けた、自分のペンネームである。舞台は豊岡市の観光スポット「玄武洞」。かつては柱状節理が表れている玄武岩を、石垣や庭石、漬物石などに利用するため採掘していた場所で、「玄武洞」と命名さて天然記念物に指定を受けたため、採掘を中止したままの壁である。洞窟は採掘しながら掘り進んでいた場所である。 今はすぐ近くまで車が入るようだが、かっては対岸の山陰線玄武洞駅で下車して、目の前の円山川を船で渡った。舟もはじめは船頭が竿を差しながら進む舟だったが、やがてエンジンがついた船となった。今も、渡し船を遊覧船として運航しているようだ。 前置きはこれ位にして、さあ、小説「奇壁」の始まりである。 **************************************************                   奇  壁                           来島義礼  川口に近いのであろうか。川幅がかなり広くなって来ている。川向こうの老化し た山並みは柔らかな起伏をなしている。川の左岸に沿って狭いアスファルト道路が 続き、その山側には単線の鉄道が平行している。仙作は鄙びた列車の数少ない乗客 の一人であった。車内には、魚の臭いと傍若無人な会話を充満させている行商人の おばあさんたち、だらしなく舟を漕いでいる会社員風の青年、無賃乗車の子供を三 人も連れた生活の疲れの色を見せる母親、そして一つ手前の駅で乗り込んで仙作と 通路を挟んだ向かい側へ慌たゞしく座を占めた女子高校生たちなどが、それぞれ無 関係に同乗していた。  仙作は三度ばかり斜向かいの女子高校生と視線を合わせた。 髪をお下げにして瞳がどきっとするほど澄んでいた。ところが何という神の悪戯で あろう。顔の他のあらゆる部分は、仕事に疲れて横着になった神様が残り物を寄せ 集めて造ったかのように、不統一で不整合だった。仙作は思わず吹き出しそうにな ってやっと我慢した。列車は一揺れして小さな駅に止まった。仙作は我に返り目的 の駅であることに気付いて慌てゝ通...

おたふく風邪と母子手帳/詐欺電話にご注意!

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    酷暑の裏の畑、ボタンクサギの花だけが目立つ   2025.8.21     一昨夜のことである。固定電話が鳴った。出ると男の声で「おたふく風邪に罹ったみたいで」という。その言い方で、息子からかと思い、疑わなかった。先ほどまで、一緒に巨人戦を見ていて、二階の自分の部屋に上がって一時間と経たない。何で固定電話に掛かってくるんだと思うが、ネット情報などで、どうもおたふく風邪の症状に近いと気が付き、うつしてはまずいと思っての電話だろうと思い込んでしまった。「おたふく風邪に罹ったことがあるか知りたいので、母子手帳はあるだろうか」と聞く。「母さんが今お風呂だから、あとで聞いてみるが、明日の朝、ちゃんと医者に診てもらえ」と答えた。「もう寝るから、また明日の朝電話する」と言って電話が切れた。息子の母子手帳なんて、もう50年以上前のものだ。 翌朝、息子が二階から降りて来て、「整形外科の予約を取ってくる」という。「おたふく風邪なら内科じゃないのか」と聞けば、「おたふく風邪とはなんだ」という。「昨夜、電話で言ってたじゃないか」と聞いても「何のこと?」というだけで通じない。あげく、「夜、夕食後一緒にテレビ見てたじゃあないか。おたふく風邪の訳がない」と言われて、ようやくおかしいことに気付いた。間違い電話か、詐欺電話だったのか。 息子が出かけて、しばらくして、おたふく風邪の主から電話が来た。間違い電話だったらと思い、「あなた誰ですか。名前は」と聞くと、黙っていて答えない。名前も言えないなんて「あんた馬鹿じゃない?」というと、「そっちこそ、馬鹿だ」と言って電話が切れた。馬脚を顕した。間違いなく詐欺電話であった。でも、母子手帳がどう詐欺に使われるのか、それが解らない。 皆さん、「おたふく風邪」と「母子手帳」の詐欺に気を付けましょう。 ********** ネットを見ると、 「おたふく風邪」と「母子手帳」の詐欺 電話の記載が、出るは出るは、ちまたで横行しているようだ。 

自分古文書(5)「囲碁談議」(『霧』穴埋め用原稿)

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 伯父の遺品の碁盤   碁盤裏側 中央の彫刻が首台 2025.8.20   写真は、昔、囲碁好きの伯父が、静岡の開業医、野竿氏から頂いた碁盤。今は伯父の遺品として我が家にある。自分が親族中、唯一の碁打ちだったからである。裏返すと、載せるには少し小さいが、伝統に乗っ取って首台が刻まれている。  大学入学後、全く未経験者ながら、囲碁部に入って、一から教えてもらい、時間がある限り、大学の生協食堂二階でひたすら囲碁を打って過ごした。囲碁部には町で打てば、四、五段の実力の猛者も先輩にいた。一年間、所属して揉まれ、一級位にはなれたと思う。だから、この頃、埋め草に囲碁を扱ったことはよく理解できる。2年になると。色々と忙しくなり、囲碁部に顔を出せなくて、やがて退部となった。  『霧』の埋め草として、『囲碁談議』は書かれた。『楽天』は自分の雅号として、この頃から使っていたようだ。内容は駄洒落で書かれているが、当時、仲間内、駄洒落は生活の一部で、四六時中ネタを考えていたような気がする。記憶にある、ありふれた駄洒落一つ。    電話が掛かってきたと呼ばれ、「電話にゃ 出んわ 」  *****************************************************                囲碁談議                            木下楽天    世の碁を知らない族(やから)に物申す。諸君は我々棋士に対して、「彼等は道楽者だ」と決め付ける。何故と尋ねて見れば、満足にその理由を答える者は皆無に等しい。中に大脳の皺が猿より三本位しか多くない奴が、問い詰められ、プレパラート上の微生物程の知識を総動員して、ずう/\しくも威厳を込め答えた。  「なんとなればだ。碁は五であって六でない。つまり ろくでなし だからだ。」  なんという軽薄な、笑止な。彼は碁の正式の名が囲碁である事を少しも知らないのだ。囲碁は一と五だから(ここで算数を講議するつもりはないが)六になる。そして彼の理論でいけばろくでなしではなくて、六でありとなり、なんとまぁ、彼は批難するつもりが逆に弁護してくれている。つまり彼等はろくでなしではないと。  囲碁は立派な芸術ですぞ!そんなにビックリする程の事もない。囲碁...

自分古文書(4)「『霧』発刊に際して」

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同人誌「霧」創刊号、表紙   同人誌「霧」創刊号、裏表紙   2025.8.19 昭和40年春、大学生になって、全く知り合いのいない静岡の地に立った。唯一、野竿さんという開業医が、昔、教員だった伯父の教え子で、医者になるために色々面倒を見たことから、自分の下宿の世話などして頂いた。だから、大学のそばに、落着き先はあった。  入学後、囲碁部に入って、講義の合間、食堂の二階で囲碁を打って過ごした。無聊のまま、夏休みの帰郷の折りに、高校時代の仲間と同人誌を出そうと思いついた。早速友人たちにハガキで呼びかけ、しかし、応じてくれたのは自分を含めて3人のみ。言い出しっぺで、自分がガリ切りなど発行の手間一切を引き受けた。ガリ版印刷で36頁の同人誌はその12月に発刊された。誌名は、同人由利氏の発案で「霧」と名付けた。「『霧』発刊に際して 」と題して、編集子の名で、以下の文を載せている。        『霧』発刊に際して     『霧』と云う単語から諸君は何を連想されるだろうか。或人はロンドンを、或人は息苦しい都会のスモッグを、或人は山小屋の朝を、或人は霧笛を鳴らし蝸牛の様に航行する船を、又或人は霧の中に背を見せて去って行った恋人の事を、とそれぞれ連想されるだろう。私にとって、  『霧』は故郷の象徴である。兵庫県の北の果ての小さな町、そこでは秋になると毎日も様に霧が立つ。霧に霞む山々、霧に漂う屋並み、そして霧が晴れ始めた時、顔を出す青空の嬉しさ、それらが次ぎから次へと、 『霧』という単語を媒介として眼底に鮮明に再現して来るのだ。 ※   『霧』はさらに心の霧をも意味する。曽て私が、各々ラベルの貼られた沢山の瓶が無秩序 に並べられている、『心の霧』という戸棚を眺めやった時、一本の瓶が特に私の注意を引いた。その瓶を手に取って、そのラベルを見ると『自己限定』と書かれてあった。私は大いに興味を懐いて、その瓶の蓋を開けてみると、一条の煙と共に人間の声が聞こえて来た。  「僕には文才が無いから投稿出来ないんだ。」  その声の何と悲しく、何と淋しく響いた事か。   ある程度の教育を受けた者なら、凡そ誰でも文章を書けない筈がない。それにも拘らず、多くの人は自らの能力を自身で限定してしまって、それが当然の様に、そ...

「助兵衛」と「コロナ」と「八紘一宇」と

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一見、秋のような、今夕の空  昼車で外気温を見たら37度と まだまだ酷暑は明けない  2025.8.18   15日、駿河古文書会があって、静岡に行った。講師は前回に引き続き、N会長である。誰もが認める、古文書解読の第一人者で、どんな講師の話よりも、初心者でもよく理解できる講義である。自分は古文書解読の講師を始めて以来、そのすべてを見習いたいと努力を続けているが、まだまだN会長には遠く及ばない。 この日の題材は、江戸時代、駿府の町方の年行事が残した萬留帳であった。その中に、駿府の商人で町方運営にも随分貢献した「助兵衛」さんの名前が度々出てくる。講師が解読をして行く中で、「すけべえ」と度々口にすることになる。ご本人「助兵衛」さんの所為ではないのだが、名前が現代では汚れてしまっているので、聞いている人たちも、十分承知のことながら、その度に心が揺らぐ。 N会長はそれを気にされたのであろう、始めから「助兵衛」を「すけひょうえ」と読まれ、最後までその読みを続けられた。「兵衛」は「ひょうえ」とも読む。 明治の海軍大将にして、その後、内閣総理大臣も務めた、山本権兵衛は「ごんのひょうえ」と名乗っていた。清廉潔白な大臣で、その後、日本海軍の気風の基を作ったと言われている。おそらく「名無しのごんべえ(権兵衛)」などと軽く扱われるのを嫌ったための名乗りだと思われる。 N会長の名前の読み替えは、そんなことを踏まえての機転だと気付いた。 言葉は元の意味とは関係なく、後の事件などによって汚されるものだと、この頃つくづく思う。まだ記憶に新しい、猛威を振るった「コロナ禍」のあと、同じコロナの名を使っていた会社などが、どれだけの迷惑を蒙っただろうことは、察するに余りある。 戦中、国威掲揚と 国民鼓舞のため、様々な事柄が使われた、「日の丸」、「君が代」などをはじめ、16日に取り上げた「八紘一宇」の言葉も利用された。それらは、敗戦とともに一転して、敗戦の象徴となって、マイナスイメージの言葉になった。 「日の丸」「君が代」はオリンピックなどの選手の活躍もあって、ようやくマイナスイメージは払拭されたようだが、 「八紘一宇」はマイナスイメージのまま、打ち捨てられている。まあ、何しろ板で覆って隠されていたのだから。 「 八紘一宇 」は神武天皇の建国の理念で、 『日本書紀』に、「八紘(...

【活動の記録】と【読了図書】7月29日~8月17日

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  静岡城北公園、ヒマラヤスギの林(15日撮影) 2025.8.17   本日分の投稿をうち忘れていて、12時直前に何とか投稿、その後手直しをする失態を演じた。今日のテーマは別のものだったのだが。失態の原因は昼寝が過ぎたことと、難解な掛川古文書講座の次回課題に取り組んでいて、時間を忘れていたことである。    この半月余では、「大学の友人との交流」、「孫たちの来金」、「女房の喜寿の祝い」、「史上最高の酷暑」などが話題となった。     ************************************************    【活動の記録】 8月01日    午後、 駿河古文書会に出席。 8月02日     午後、大学の先輩、大庭氏宅来訪。   8月03日    午後、 大学の同級生、百地氏と逢う。その後大庭氏宅へ。   8月05日   群馬県伊勢崎市 41.8度、国内最高気温を更新 。 8月06日   静岡市 41.4度、静岡県の最高気温を更新 。     8月09日   名古屋 、かなくん母子来金 。     8月10日   夜、 「蓬春」(島田の食事処)にて、 女房の喜寿の祝い 。         老夫婦、 子、孫含め9人にて。   8月11日   夜 、 昨日のお礼も兼ねて、ばら寿司を作って孫たちにふるまった。         菓子作りが趣味のあっくんがクレーブを作り、皆んなにふるまって         くれた。  8月13日     午後、まきのはら塾、「古文書解読を楽しむ」講師。 8月14日     午後、掛川古文書講座出席。 8月15日     午後、駿河古文書会に出席。 8月16日    午前、金谷宿大学「古文書に親しむ(初心者)」講座教授。            午後、金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」講座教授。   【読了図書】 読書:「わるじい義剣帖 5 ざまあみろ」...

母校の豊岡小学校が無くなる?! 4 「奉安殿」と国旗掲揚塔の「八紘一宇」

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夕方、暗雲が垂れ込める 今夜は大雨になる予報 2025.8.16   60年前、豊岡小学校の南東隅、講堂の脇には、「弥栄(いやさか)園」と呼ばれた庭園があった。東から西へ、少し傾斜があって、色々な樹木が植えられ、小学校の歴史を示して、樹木もそれぞれ大木になっていた。一番低いところはグラウンドに面していて、池があった。 ここを子供たちは「ほうあんでん」とも呼んでいた。「奉安殿」のことで、戦前の日本において、天皇皇后(明治天皇と昭憲皇太后、大正天皇と貞明皇后、昭和天皇と香淳皇后)の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物のことで、弥栄園の一角にその基礎部分が残っていたような記憶があるが、建物はすでになかった。  弥栄園の南東隅には屋根と柱だけの土間の建物があって、「御旅所」と呼ばれていた。お祭りのときにお神輿が休まれる場所だと思った。秋祭りにお神輿が安置されている風景が記憶にある。  弥栄園の北東隅には、 国旗掲揚塔があった。3メートル 立法のコンクリート製の大きな土台に、一本の高いポールが立っていたと思う。土台部分のグラウンド側の壁面には、石の縦長の額がはめ込まれ、なぜかその上をブリキ板でしっかりとふさがれていた。子供たちは中がどうなっているのか、疑問を持ったが、大人に聞くのははばかられた。後年、ブリキ板が外され、そこには石板に「八紘一宇」   の文字が彫りこまれていたのを知った。このブリキ板も、戦後教科書を墨で黒く塗ったのと同じ行動だったのだろうか。 弥栄園は我々の遊び場だった。真ん中辺りに、樹液を出していて、いつも虫たちが集まる 一本の 木があった。幹回りが1メートルもあっただろうか。樫の木だったように思う。大人の目の高さほどの所から、樹液が出ていて、夏には子供たちがよく立ち寄った。カナブン、タテハチョウ、スズメバチ、たまにクワガタムシもそこで捕まえた。ただ一番人気のカブトムシは、そこでは見たことがなかった。夜中とか早朝に行けば居たのかもしれないが、当時の子供たちには、そのような知恵はなかっただろうし、そんな時間に大人たちが付き合ってくれるはずはなかった。

自分古文書(3)「童話 弘君の顔とお地蔵さん」3

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静岡城北公園のサルスベリ 白から赤までグラデーションのように  4種類の花の色が並ぶ  2025.8.1 5    午後、暑さの戻った静岡へ、駿河古文書会で向かう。気になっていたカルガモ親子、今日はコガモが一羽しか見かけなかった。もとは10羽近くは生まれたはずで、天敵が近くにいるのだろうか。生存率はこんなものだろうか。厳しい! 「童話 弘君の顔とお地蔵さん」の続き、で今日は終りとなる。この童話を級友たちに見せたのだろうか。反応はあったのか。記憶にない。もう聞いてみる級友も あちらへ 行っている。さあて、次は「奇壁」という小説である。    弘君が眼をさましたときはもう朝でした。すずめの鳴き声がしきりに聞こえてきます。お母さんはもう起きていて台所でコトコトと音を立てていました。起き上がるとすぐに弘君は鏡に顔をうつしてみました。  「よかった。ぼくの顔、長いや」  弘君はうれしそうに笑いました。鏡の中の弘君もニコニコ笑っていました。弘君は台所に行き、お母さんに言いました。  「お母さん、ぼく、よくわかったよ」  「あら、弘ちゃん。今日は早いのねえ。それでわかったってなんのこと」  「あのね、きのう言っていたでしょ。ぼくの顔のこと」  「ああ、そうだったわね」  「ぼくの顔が長いのではないのだね」  「えっ?どういう意味なの、それ」  お母さんはふしぎそうな顔をしてたずねました。  「つまりね。こういう長い顔をしたのがぼくなんだよ。つまり短い顔だったらそれはいくらぼくに似ていてもぼくではないんだよ。だから、ね、お母さん。神さまはぼくをみんなから区別できるように顔を長くして下さったんだよ。お母さんだって人ごみの中でぼくをすぐ見つけられるだろう。顔が長いってすごく便利だよね」  「あら弘ちゃんたら。でもえらいわ、そうね、よくわかったわ。お母さん、弘ちゃんを見なおしたわ。でもどうしてわかったの」  弘君はヘヘヘヘと笑うだけでした。お母さんもうれしそう、平和で明るい朝でした。 ※  その後、弘君は自分の顔のことを少しも気にしなくなりました。そうなると、いつの間にか長い顔をはやしたてられることもなくなりました。みんなはただ、弘君があんまり長い顔を気にしていたので、面白半分にはやしたてていたのでしたが...

「古文書解読講座」が楽しくなってきた

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    庭の隣地(茶畑)境の タカサゴユリとサフランモドキの 意図しないコラボ  2025.8.14   昨日、牧之原市の榛原文化センターで、「古文書解読を楽しむ」講座を実施した。あいにく今月の第2水曜日は旧盆に当たって、出席者が少ないかと危惧したが、7名の参加があってまずまずだった。 最初に顔を見せたMさんは、来る途中に富士見霊園の中村肇先生のお墓へお参りしてきたという。中村肇先生が亡くなられて、もう7年になる。自分は直接に教えを乞うたことはないが、先生が行われていた当地での複数の歴史講座が終わって、その講座の一部を引き継ぐような形で、一年後に古文書講座を始めた。もちろん、古文書講座と歴史(郷土史)講座は別物であるが、この古文書講座の 受講生の何人かが、古文書講座の 主だった受講生になって頂いている。 何しろ長く中村先生から郷土に関係する歴史を学んできた人達だから、当古文書解読講座で扱う武将や郷土の話は、知識が豊富な方が多く、とても自分が太刀打ちできるレベルではなく、ついつい皆さんの発言に聞き入っており、時々、これではどちらが講師だかわからないと感じるほどである。講座の展開が、講師の一方的な講義に留まらず、受講生の色々な情報や知識に盛り上がっている。 また、中には、古文書解読を勉強されて来て、解読について講師も気付かなかった、かなり的確な意見を言われて、大変頼もしく思っている。講師が至らない分、受講生の方々にカバーして頂ける。講師がすべてを取り仕切るのではなくて、講師と受講生が意見を出し合って古文書を解読してゆくという形である。これはまさに自分が目指している講座の理想形である。 だから、その指摘が正しいと判断されたら、自分の解釈を変えることに躊躇はない。 古文書解読の勉強は、講師から一方的に聞いているだけではなくて、受講者が自分で考え、間違ってもよいから発言してみる、そこにこそ学びがあるのだと思う。「古文書解読を楽しむ」講座は、そういう意味で、理想に近づいてきたかと、講師自身がほくそ笑んでいる。

女房の喜寿の祝いと孫たちの夏

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女房喜寿のお祝い 孫・子の寄せ写真   2025.8.13   9日の夜、 名古屋から、かなくん母子が帰郷した。孫のかなくんは、 高校2年になって、 またまた背が伸びて、176cmあるという。頭が 鴨居 に付きそうである。しばらく会わないと見違えるほどになるものである。中学では剣道をやっていたが、高校に入って弓道を始めたと聞いていた。 10日の夜は、島田の食事処 蓬春(ほうしゅん)で、子供と孫たちが打ち揃って、女房の喜寿の祝いを催してくれた。と言っても、そんなに改まったものではなく、みんな揃ってのお食事会であった。最後にうな重が出て、ウナギが高くなってから、とんと口にしていないウナギを 久しぶりに 食べた。負け惜しみではなく、高い金を払ってまで食べたいほどのものではないと思った。 かなくんの弓道    10日、11日、12日とかなくんは、 島田市総合スポーツセンター 「ローズアリーナ」 弓道場 に午前中通った。弓道とはまたマイナーなスポーツだが、弓道場は100円の使用料で利用できるらしくて、ほとんど順番待ちはなく練習が出来るという。但し、弓と矢は持参するので、だれでも練習できるという訳ではないようだ。 かなくんと同級のまーくんは磐田北高校の野球部で、夏の大会は一回戦で敗退して、秋の大会を目指している。夏の大会では、一番ショートであったが、活躍できないで終わったようだ。 中学三年のあっくんは、兄のまーくんに続いて、掛川城北中学3年で、軟式野球部に所属、キャッチャーで中々の強打者らしく、小笠ブロックに選抜されて、この夏、県大会へ出場、1回戦では強打爆発して勝利したというが、2回戦で敗退したらしい。いずれもそんなに甘くはない。  12日、昼は準備したパスタをみんなで食べて、午後それぞれの自宅へ帰って行った。来年は自分の傘寿の祝いをやってくれるらしい。

自分古文書(3)「童話 弘君の顔とお地蔵さん」2

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庭のタカサゴユリ 外来植物で繁殖力が大変強いようで 見かけたら抜いて下さいという 花が終わったら抜こう    2025.8.12     「童話 弘君の顔とお地蔵さん」の続き    夜八時に弘君はいつものようにお母さんにふとんをのべてもらい、その中にもぐりこみました。いつもなら、すぐ寝ついてしまう弘君でしたが、今夜はなかなか眠れません。                                  「長い顔!長い顔!お馬さん、お馬さん、ここまでおいで」  はやし立てる子供たちの声が何度も何度もくり返して聞こえて来るのでした。こみ上げて来る涙をようやくおさえながら、「ちきしょう!ちきしょう」と何度となくつぶやきました。しかし弘君もしばらくするとようやく昼間のつかれが出たのか、さわやかな寝息を立て始めました。 ※  弘君は夢を見ました。カバンを背負って学校に行きかけていますと、うしろから、  「弘君!弘君!」とよぶ声がしました。  「だれ?ぼくをよんだの」  ふり返ると誰もいません。ただ道ばたに赤いよだれかけをかけ、鉄のつえをついた石のお地蔵さんがポツンと立っているだけでした。弘君が歩きかけると、また、「弘君!弘君!」とよぶ声が聞こえて来ます。弘君はその声がたしかにお地蔵さんの方から聞こえてくるのに気がつきました。その前まで来ると突然お地蔵さんが口を開きました。  「弘君、しばらく待ちなさい」  神々しい声でした。弘君は少しもびっくりしませんでした。これがお母さんの言っていた神さまじゃないかしらと思いました。それで、  「お地蔵さんは神さまなの」とたずねました。  「そうじゃ。そうとも言う」  そこで弘君はお地蔵さんに質問しました。  「それじゃ、どうしてぼくの顔を長くしたの」  「それはじゃね。弘君には長い顔がちょうど似合うと思ったからなのじゃよ」  お地蔵さんはニコニコしながら答えました。  「ぼくは顔がこんなに長いから、みんなに笑われるんだよ。ぼくも普通の人と同 じように短い方がいいや」  弘君は口をとがらせて言いました。  「おや、こまったことじゃ。弘君が短くしてくれと言うんなら短くしてやってもいいんじゃが、あとからやっぱり長い方がよいから...

母校の豊岡小学校が無くなる?! 3 二本松のこと

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  豊岡小学校の二本松   (ネットで探しまくって見つけた二本松) (無断で借用しています)    2025.8.11   8月9日の「豊岡小学校遠望」の写真を見て、右手校舎すぐのグラウンドに、松の木が一本見えるのに気付いた。あれは「二本松」と呼ばれて、豊岡小学校のシンボルの松である。かつては、すぐそばに寄りそうようにもう一本の松があって、合わせて「二本松」と呼ばれていた。樹齢は100年以上あったであろうか。小学校の創立と、どちらが早かったのであろう。(豊岡小学校は、三年前に150周年を迎えている) 小学校が3分団に分かれていた時は、右手からグラウンドに沿って手前に伸びていた校舎に教室があった1分団は、その校舎の北の先端に昇降口があった。二本松の所には2分団の昇降口があった。左手、講堂と本館の間を入った所に、3分団の昇降口があった。 昭和47年に出火した県立豊岡高校(出身校)の火災の際に、神武山の向こう側にあった豊岡高校から、神武山を越えた飛び火により、二本松の頂冠部が焼失して、二本の内一本は枯れてしまい、現在は小学校新校舎の前に、1本だけ残っている。かつては、二本松の根元までグラウンドレベルに整地されていて、 児童の放課後の待ち合わせ場所だったというが、1分団だった自分たちは、少し離れていたから、 待ち合わせ場所にした記憶はない。 松はもともと肥料っ気のない、根元まで踏み固められたぐらいの方が、元気に育つ。だから、松葉の落ち葉はきれいに掃除した方が松の木は喜ぶ。二本松の根元はグラウンドの延長で踏み固められ、松落ち葉はきれいに掃除されていた。 当時は少年野球が盛んで、地区対抗の市内少年野球大会が、毎年、夏休みの豊岡小学校のグラウンドで行われた。地区で選ばれた小学校高学年の選手が、日頃の練習の成果を示すのである。我々の町は町内に古いお寺が二つもあるところから、「寺町」と呼ばれ、小学校の北東側に沿った区で、通学には5分と掛からなかった。放課後、帰宅後に小学校グラウンドに集まって、二本松をバックネット代わりに、毎日のように野球の練習をした。よくしたもので、近所の暇な大人がいつの間にかコーチの役を引き受けていた。 ところが、六年の春に野球大会は廃止になり、その年からはドッジボール大会に取って代わった。どうやら、女子は...

母校の豊岡小学校が無くなる?! 2 卒業文集「雑草」のこと

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豊岡小学校卒業文集「雑草」 (但し、後の同窓会時コピーを頂いたもの)  中央の学校の版画に「YK」とイニシャルが彫られているから 自分が彫った版画と思われる   2025.8.10   6年生になると、どのクラスも卒業文集を作った。他のクラスは、先生が手を出して、中々の文集が出来るのだが、N先生は一切、手を出さなかった。どんな内容にするのか、謄写版の使い方まで、クラスの子供たちに任せた。主だった子供たちが編集委員になって、事がはじまったように記憶する。 卒業文集「雑草」を今見るに、ガリ版の文字はバラバラで、編集委員がそれぞれに切ったことが伺える。 ガリ版で、色々な生徒によって切られた文字は、そのまま個人の書き癖がでるから、これを読むのは、もはや、古文書解読の世界である。 先生が何も言わなかった証拠に、生徒一人一人のニックネームが拾われているコーナーがあることで、普通ならそんなコーナーは止めさせるに違いない。ところが、ご丁寧に、ニックネームのついた理由、及び、それぞれの性格まで、口に衣を着せることなく記している。これではまるで悪口集である。 性格覧を読んでいくと、「とてもほがらかで、時々とっぴょうしな事を言って人を笑わす」「短気ですぐおこりカッとなる」「すこしおっちょこちょいで、へんなことをいう」などと辛辣な言葉が続く中で、自分の欄を見て驚いた。    おだやかで責任感が強く、人から信頼されている。 おいおい、これは最上級の誉め言葉ではないか。他の人すべてを見てもこれほどの誉め言葉はない。辛辣な見方の中で、これはどうしたことなのだろう。そんなにクラスを牛耳っていたつもりはないし、この文集も主導的な立場だったかもしれないが、みんなが意見を出し合って作っていたはずで、いったい誰がこんな歯の浮くようなことを書いたんだ? 今まで全く気付かなかった。皆んな自分には一目も二目も置いていたのであろうか。50年以上経って、初めて気づくとは、ずいぶん間の抜けた話である。 この卒業文集を「雑草」とは、よくも名付けたもので、できるだけ人の手が加わえないで、勝手に力強く伸ばすという意味で、長瀬先生の目指した所だった。それを生徒たちは理解していたのだろうか。 「雑草」 の最初に長瀬先生が言葉を寄せている。  長瀬先生の言葉と肖像 もちろん版画は生徒が彫った...

母校の豊岡小学校が無くなる?! 1 長瀬先生のこと

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    豊岡市立豊岡小学校 遠景 (写真はネットから拝借) 旧校舎、左から講堂、本館、校舎 往時は、右端白い建物から手前に木造校舎が続いていた 本館の背後に体育館、中庭を挟んでさらに校舎があった 後ろの山は神武山(旧城跡)  (現在は本館も校舎もあたらしくなっている)  2025.8.9   母校の豊岡小学校のことを話そう。兵庫県の北部、但馬の国で最も大きな町、豊岡市のほぼ中央に、豊岡小学校はあった。60年以前、1クラス50人を超す人数で、学校は3分団に分かれ、それぞれ1年生から6年生まで2クラスずつ、1分団12クラスで、全校で36クラス(1クラス50人として)、1800人を超す生徒が、すべて市街地から歩いて通っていた。それ位の距離に、それだけの子供たちがいたことになる。教員も担任だけで36人いたわけで、50人近い陣容だったと思われる。   今なら大学の教育学部出身の教員が大半なのだろうが、戦後間もなくの往時は、教員不足から、教員養成所出身の先生が多くいた。自分の5、6年生の担任だった長瀬且人先生もそういう一人で、今思えば いい加減 な ( いい加減は誉め言葉のつもり ) 先生であった。 もっとも、クラスが53人も居れば、細かいことにこだわってはおれない。 市内に私立中学なんてないから、皆んなそのまま公立中学に入るのだし、父兄も生活に汲々としていて、子供に構ってはおれず、当然、モンスターペアレントもいない。それでも、不登校などという生徒は一人もいなかった。先生は、クラスで仲間外れにする気配には敏感で、クラスの女子生徒が仲良しグループを作った時には、放課後に呼び集め、諫めた。 何かを学んだという記憶はない。子供の頃の記憶ってそんなもんだろう。先生は、 大方のことは生徒の自主性を重んじ、 下手でも生徒たちに任せて口を出さなかった。 悪く言えば、いい加減な先生だったが、今から思うに、先生は加減を心得た、深い考えがあったに違いない。多分違いない。 放っておいても、ドッジボール大会や卓球大会には優勝した。休み時間に、男女入り混じって相撲と取っていたのは、自分たちのクラスだけだった。それも子供たちが勝手にやっていたことである。  放課後、生徒たちはよく先生の自宅に遊びに行った。子供はおらず、家には奥さんがいるだ...

自分古文書(3)「童話 弘君の顔とお地蔵さん」1

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   お地蔵さんはニコニコしながら‥‥‥ (静岡、龍泉寺の延命地蔵/中々、ニコニコした地蔵は少なくて)   2025.8. 8  山口康幸君は高校の同級生で、仲の良い友達だった。もう実名で話しても、関係者はほとんどいないから、少々情報が間違っていても、問題なかろう。彼がガンで亡くなって、もう50年近く経つ。彼の顔はやや長く見えた。特にそんな指摘をすることもなかったが、題材に使っても気にするような男ではなかった。 もともと彼は京都の会社社長のお妾さんの子供であった。認知はされていたが、京都には住み辛かったのであろう。母と子で城崎温泉に移り住んでいた。そんなことは皆んな知っていたが、それをどうこう言うものはいなかった。  彼は高校を卒業して京都に出て、父親の会社に入って働きはじめた。自分とは遠隔の地で、便りも絶えていたから、突然の訃報に驚かされた。嫁さん貰って、子供も出 来て、これからという時の訃報だった。葬儀に駆けつけて、見た彼の死に顔は悔しそうに、まだこの世に未 練を残しているように見えた。  ************** **************     童話 弘君の顔とお地蔵さん     はじめに  童話を書いてみたいと思っていた。ある日、山口康幸君の長い顔を見ていて、ふとインスピレーションというやつが浮かんで来た。芥川龍之介の『鼻』も幾分かヒントになった。そしてその中に自分の考えを折り込もうと思って書いた。実際に書いたのは昨年の12月頃、それをまとめたのが今である。出来るだけ幼稚にかわいらしく書こうと努めた。はたして自分に童話を書く才能があるのかどうか。自分には解らない。だれかの批評を聞きたいと思っている。    昭和 40 年3月 10 日   朝1時2分前。テストも終わり、ゆったりした気分で。    弘君は小学校三年生の元気の良い少年でした。しかし弘君にも一つ気にしていることがありました。  ある日のことです。学校から帰りかけている時でした。遊園地の所まで来ると、そこで遊んでいた五、六人の小さい子供が弘君を見上げて言いました。  「わあい。長い顔だなぁ」  そうなんです。それが弘君の気にしていることだったのです。弘君...