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自分古文書(9)「うどん」(後)

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 裏の畑の渋柿 干し柿にするならもう取り頃かも    2025.9.30 自分古文書「うどん」の後半を載せる。   *******************************************************    下の道を義姉が一年と二タ月になる高司をねんねこに背負って、一歩一歩だるそうに「ほいしょ、ほいしょ」と高司を揺すって調子をとりながら斜めに登って来た。足元に注意を配っていた視線をふと上げたので、笑みを浮かべて一寸会釈すると、何やら怪訝そうに眼を細めて五、六歩近寄ったが、「何や、よっちゃんか」と驚ろきと安堵の錯綜した面持ちで言った。  「秀作さんかと思った」  秀作とは兄の名前である。義姉は少し近眼なのに眼鏡を掛けていなかった。自分の大きな顔には眼鏡は似合わないと決めてかかっていたからである。玄関から回って部屋に入ってくると、「ああ、疲れた疲れた」と大形に声を上げ高司を下ろしながら、「何やぁ来たんか。今度は何で」と尋ねた。  義姉が無意識にしゃべっていることは解ったが、僕はちょっと不快を感じた。  「兄貴、何も言わんかった? 昨夜電話があって『どうしてる?』っていうから、『今、試験休みだ』と答えたら、『そんなら来んか』ということになって来たんだけど」  「ご迷惑ですか?」と皮肉ってやろうかしらんと思ったがそれは止めた。そして将来のことで兄に相談するつもりもあったのだが、それはわざと言わなかった。  「何も聞かんで。もっともパパは昨日泊まりやったから」  着脹れた高司が太って腕輪のようなくびれの出来た手を卓袱台に掛けてうーんと立ち上がった。そして当初からの目的であったように僕を不思議そうにじっと見た。  「ママぁ、何かぁ、何かぁ」  義姉は甘えかかる明子を手で払いのけて、高司を抱き上げ畳に肩から寝かせた。  「さあ、おむつを替えるのよぉ、高司ちゃん」  のけぞってむずかる高司に猫なで声で言った。下半身が自由になると高司はむずかるのを止めて「おう、おう、おう」と自転車でもこぐように元気良く足を動かした。手慣れた様子で義姉は荷造りでもするようにおむつを付けながら「まだ、だめなんやこの子」と言う。  「よっちゃん、お昼は?」  「それが昼時が伊良湖だった...

誰がこんな21世紀を想像したか(5) おれおれ詐欺が始まりで 

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溝脇、草刈り跡に一斉に咲く白のヒガンバナ 2025.9.29 思えば、おれおれ詐欺が始まりだった。 犯行は なんとなく素人っぽく見えていたが、次から次へと、世間で注目されることがあると、それから見事に詐欺を考え付く。詐欺拠点も日本から海外、東南アジアの国境地帯へと移っていく。詐欺のビジネス化である。  日本のお年寄りはお金持ちである。生活はつましくとも、ちゃんとした貯えをもっている。しかも、長い人生で、人を疑うことなく過ごしてこれた。だからだまし、だまされやすい。もっぱらターゲットになってしまった。 実行者は少しずつ捕まってきているが、大本は未だに姿を見せない。当局は首謀者について見当がついているのだろうか。自分の想像では、様々な締め付けで、日本に居づらくなった暴力団が中国マフィアなどと結びついて、詐欺のビジネス化をしたのではないか。暴力団の海外進出であるが、ターゲットは日本のお年寄りである。資金源などからも、どうやら、素人からプロへ詐欺が展開して行ったとおもわれる。 日本の警察は暴力団の資金源を断つことに懸命で、それなりに成果を上げて来た。しかし、どこか間違っていないか。暴力団の構成員はいずれも一般人がどこかで道を外れて、暴力団に入ってしまった。暴力団は道を外れた人々の最後の受け皿だった。そこが潰れると構成員たちはどこへ行けばいいのか。その最後の受け皿を考えて置かなければ、構成員はいずれ見えない地下へもぐってしまう。 どうやらそういう人たちが海外進出して、詐欺ビジネスに勤しんでいるのではないか。そんな想像をしてしまう。日本の警察は当然それらを把握していながら、海外ゆえに手が出せないでいるのであろうと。  昔はどんな詐欺事件でも、犯人は顔を晒していた。ところが、ネット環境が著しく発展して、顔を晒さなくても詐欺が出来るようになってしまった。そういう犯罪に対して、ネット環境を提供する側はあまりに無防備だったと思う。我々年寄りの前半生には、ネット環境など一切存在しなかった。だから、この年になって、分からないことには決して手を出さないことである。分からないことは分からないと拒否すれば、決して詐欺に掛かることはない。まだまだ、ネット世界に入らなくても、十分生活できる。 しかしながら、誰がこんな21世紀になってしまうと想像したであろうか。一生掛けて、老後のため...

自分古文書(9)「うどん」(前)

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  昔、苗を頂いたアメジストセージ 確か畑の隅に植えたはずと 雑木林化した畑は避けて脇の土手から見ると 今も元気よく咲いていた 2025.9.28 自分古文書(8)の「いらごのしま」に続いて、「うどん」という短いものを、続きの積りで書いた。しかし、この試みはここで終わっている。 *******************************************************   うどん  玄関からそれほど広くもない奥へ声を掛けたが返事がなかった。この春来たときと少しも変わっていない。狭い沓脱ぎには履物がすべて脱ぎ捨てになっていて、片寄せねば足の踏み込む場所もないほどであったし、下駄箱の上は花瓶に色褪せた造花があって、それをも含めて埃が白く降り積もっていた。もう一度声を掛けて、やれやれ留守かと思いながら上がり込み、客間に使う手前の部屋を覗くと、薄暗い中に怯え顔の明子がいた。  「ママ、いないの?」  「お使いに行ったん」  春に来たときには「おじちゃんだ、おじちゃんだ」と言いながら僕の周囲を跳び回り腰に抱きついて来て「おじちゃん、今日泊まっていきいや」と愛くるしい顔で見上げたのにと思って、「僕が誰や、解るか?」と問うと、「おじちゃんやろ」とそれでもちょっと安心したといった表情で僕を見て手元の着せ替え人形に視線を落とした。  「幼稚園は?」  「もう終わった」  明子は金髪を植え込んだ女の子の人形に服を着せようとして引っ張るが、よほどぴったりと作ってあるものを見えてなかなか着せられない。本人はそれに熱中しているにもかかわらず妙にしょんぼり見えた。  部屋が暗いのは縁になっていた南側へ続きに一ト部屋建て増したからだと解った。  「もう出来たんだねぇ」  明子は意味を理解しなかったのか、黙っていた。故郷の母は建て増すについては反対だった。こんな高台の不便な猫の額みたいなところに建て増すお金があったら、貯蓄して平地のもっと広い土地でも買うお金にした方が良い、という母の意見にも一理あって、ここでは夏は断水しがちであったし、登って来る道は細くて一方が崖になっていて子供には少し危険でもあり、もちろん自転車さえ上がれない不便なところであった。兄もゆくゆくは下に移りたいと洩らしていた。けれどもこの土地は義姉の里の父に貰...

金谷宿大学歴史講座前の、雑談より

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岡部英一著「一言坂の戦い」 2025.9.27 金谷宿大学の「駿遠の考古学と歴史」講座を、もう20年近く受講している。S先生は文献主義を徹底されていて、考古学的な発掘文化財や出来るだけ元の文献を最重要とされ、文献のない推定部分を推定や想像で補って歴史を再構築するのは、歴史小説の世界で、歴史ではないとされ、「駿遠の考古学と歴史」は文献のない部分は避けておられると感じる。 戦国時代は世の中が激動していながら、残っている文献が大変少ない時代で、過去には戦国時代は研究課題にされることが少なかったと思われる。しかし、現代はその戦国時代が、お城ブームもあって、大変注目され、多くの歴史学者が研究課題とされているように見える。お城の発掘なども進み、多くの歴史学者が様々な仮説を立てて、戦国時代を理解しようとされている。そういう講演会を聞くことも多い。そういう先生方が大河ドラマの考証などをされていて、歴史研究と大河ドラマの境があいまいになっていて、S先生はそのあたりを苦々しく見られているのではないかと思う。 そんな中で、先日、金谷郷土史研究会の講演会を受けていただいた、磐田の郷土史家岡部英一氏が、自費出版された「一言坂の戦い」が気に入らないようで、一度両者を紹介した時、大変な剣幕で、歴史の中に想像や推定を入れて、さもそれが真実であるように書くことを糾弾された。 今日またそれが話題になって、小説として書くならばとにかく、歴史として書くことは許せないとおっしゃる。岡部氏は、故郷の磐田はサッカーだけの街ではない。戦国時代には、若い家康と、命が尽きる直前、最後の信玄が、三方ヶ原で戦う前哨戦として、一言坂の戦いがあった場所である。本多平八郎忠勝が大活躍した戦いとしても知られている。そんな歴史のあったことを、磐田の子供たちに伝えたいという一点で、テーマとして選ばれた。歴史研究者でもなければ、新説を打ち立てて注目を得ようという野心があったわけでもない。そんなに嫌わないでよ、というのが自分の本音であった。 S先生は、戦国時代を扱う売れっ子の歴史学者の、文献など歯牙にもかけない姿勢に、腹を据えかねておられ、そんな気持ちが岡部氏へ向かったのだろうと思う。 11月には、金谷郷土史研究会の顧問でもあるS先生が、研究会で講演をして下さることになったという。楽しみだ。    

自分古文書(8)「いらごのしま」(後)

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    伊良湖岬の灯台と神島 (ネットより借用) 往時、実景を見たのかどうか記憶にない      2025.9.26  まきのはら塾の「古文書解読を楽しむ」講座、やはり榛原文化センターが来月一杯、避難所となるため、今回は、相良のいーらへ会場を移すことに決めた。時間は30分遅らせて、1時30分からとする。 自分古文書「いらごのしま」の島の後半を続ける。 *******************************************************  中程まで降りたところで切り開いた細長い棚状の広場に出た。そこには万葉歌碑が1基、忘れられたように海に面していた。      うつせみの いのちをしみ なみにぬれ             いらごのしまの たまもかりをす  麻続王(をみのおおきみ ) とある。王((おおきみ)というからには都では貴公子だったのだろう。反逆の陰謀か何かの咎で華やかな都からこの寂寥たる半島の先端に流刑に処せられ、淋しい恥多き命を長らえていたのであろう。  灯台は思ったより小規模で無人灯台だった。足元に洗濯板を立てたような急な下りの石段があって、岩の上にコンクリートで固めた灯台の基底まで導いていた。神島は灯台の先端よりはるか左上に見える。神島と岬の間は潮の流れの激しい伊良湖水道である。その動きは窺えないけれども、鉛色の海面下には絶えることのない不気味な移動が続いているのであろう。水道を数隻の小型船が先を争うように三河湾の方へ波を蹴立てて進んでいた。それを目で追いながらふと思った。  〈王は陸路ではなしに舟で流されてきたのではないか〉  長い陸路を大回りして来るより三河か鳥羽から島伝いの海路を採った方がよほど近いのだ。王を岬に残して舟が岸を離れたとき、王は『舟を返せ!』とわめき叫んだであろうか。僕は王の身になってみてそうはしなかっただろうと思った。王は貴公子としての矜持を捨てきれなかった。だから叫び出したい心を懸命に押さえて、海に背を向け舟が視界を去るのをじっと待ったに相違ない。たとえ王自身に落ち度があったとしても、冷たく流刑にした社会に対する反抗をその背に装って。  前の石段を降りようかと少し迷ったが、一段降りてみて降りようと心が決まった。一段ごとに...

自分古文書(8)「いらごのしま」(前)

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  自宅脇、川縁のススキ 2025.9.25   自分古文書の8番目として、「死の閃光」の三か月後、昭和42年12月の作品、「いらごのしま」を取り上げる。当時を思い出すと、短いものを幾つか書いて、長編にしようと、意図したものであった。もっとも思うようにはならず、この後「うどん」(「いらごのしま」の後で載せる)を書き、2作品で終わっている。 ***********************************************************   いらごのしま  緩い坂になった道を僕は足をぎくしゃくさせて走っていた。右手に見晴らされる伊良湖の港はのこぎり型に素早く跳んで僕に追いすがってきたけれども、徐々に遅れていった。道は岬の山の中腹を巻きつくように左へ左へと曲がっていた。視界はまっすぐに延びた防波堤を越して、次第に黒ずんだ外海に開けてきた。空はいつの間にかすっかり薄雲に覆われて、十月の空気は紅潮した頬に快かった。風はほとんどなくて、海はよく凪いでいた。  精神的に参ってしまい不健康な生活を続けていて、肉体的にも自信喪失の状態にあった僕は思いついて身体に一つの挑戦を試みたのであった。犬のように忙しなく呼吸しながら、それでも自分の健康に少しずつ自信を取り戻しかけていた。久しく走るようなことのなかった両の足は酷くぎこちなかったけれども、他の部分の機能は至極順調で病の片鱗すら感じなかった。僕は次第に陽気になって空を向いて笑った。  不意に石につまづいた。足を運び損ねて前のめりになり両手を突いた。僕はすぐには起き上がらないで、這いつくばったまませわしく呼吸した。運動不足に退化した足の筋肉は身体の重みがかかって貧乏ゆすりのように震えた。呼吸音の向こうでそれよりはるかに密やかでゆっくりした潮騒が聞こえていた。僕は今初めて気付いたように自分がたった一人で伊良湖岬にいるのだと感じた。浮き立った心は花が凋むように沈んでいった。  立ち上がって手の砂を払いながら光景が淋しすぎるのだと思った。駆けているときには僕に合わせて踊っていたのに止まると同時に死んだように動かなくなってしまった。鉛色の海は曇った空の下で水銀のように重々しく凪いでいる。木々は真夏のむんむんとした緑をすでに失い、却って華やかに見える紅葉にはまだ至らない衰退期...

自分古文書(7)「死の閃光」(5)終り

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裏の畑のヒャクニチソウ  毎年咲いて最早雑草化している 2025.9.24   まきのはら塾の事務局より電話があり、年明けの発表会の事を聞かれ、昨年並みの展示に加えて、一時間くらいのミニ講座をやることになった。テーマを考えなければならない。また、文化センターは10月一杯、避難所が長引いて使用できないことになりそうで、来月八日の分は相良のイーラに変更せざるを得ないかと思う。 自分古文書「死の閃光」を続ける。今日が最終回となる。    ******************************************************  保夫は夢を見ていた。そしてそれを夢だと承知していた。けれどもそのままに置くと現実になってしまいそうな気がしたので、何度もこれは夢なんだと自分に言い聞かせた。  そこは最近竣工したばかりの保夫の高校の講堂のようだった。鉄筋コンクリート造りで見るからに頑丈な頼もしい建物であった。人々はここなら大丈夫と思ったのであろう。次から次へと入ってくる。保夫はそんな気休めは信じない筈なのに講堂の中につっ立っていた。みるみるうちに堂内は人々々で埋め尽くされていく。窓という窓にはすべて暗幕が引かれていたので夜なのか昼なのかさえ解らない。小さい裸電球が数個細々と点っている。暫くすると人々の移動が止んだ。もう入るだけのものは入ってしまったのだろう。そして忍び寄る死と共に淡い望みと諦めと捨鉢の混じった異様な雰囲気が漂い始めた。講堂の底を陰鬱に流れるのは老人達の口から出る念仏の声だった。偶に天井に激しく打ち当たるのは若者の恐怖と絶望の叫号であった。唯嬰児の苛立たしい泣き声だけが生を主張し続けていた。保夫は夢遊病者のようにふらふらと堂内を彷徨いながら思った。・  〈一日持つか二日持つか。それにしてもこれだけ多数の死体にとっては格好の棺桶になるだろう。〉  しかし彼らは今はまだ不気味に蠢いていた。保夫はその一箇所にふと注意を引かれた。  「山岡!」保夫は駆け寄った。山岡誠一は青白い顔に嬉しそうに笑みを浮かべた。  「どうして君はこんな所にいるんだ。君は死んだ筈じゃぁなかったのか。」  これは夢なんだと思いながらもやはりそう尋ねざるを得なかった。  「そうさ僕は死んだんだよ。葬式のとき君は弔辞を読んで...

物忘れの競演、歳は取りたくないもので

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今夕、もう秋の空、飛行機雲が目立つ  2025.9.23   磐田在住のO氏と、磐田中央図書館で午前十時に待ち合わせた。O氏の著作、2冊をそれぞれ2冊ずつ、合わせて四冊を、購入希望者がいるので、受け取るためである。 九時に家を出て、途中でスマホを忘れたことに気付いた。前回、掛川中央図書館で待ち合わせ時、図書館の休館日に当たっていたため、連絡をとるスマホを自分が持っておらず、結局会えずに帰ってきてしまったことがあった。今日は図書館の開館日だということは確認していたが、途中何があるか分からない。スマホは必需品なのだが、日ごろ持ち慣れていないと、外出時に思い付かないのである。 磐田中央図書館には15分ほど前に何事もなく無事着いた。時間になってO氏が 奥さんを伴って 、やってきた。このあとお墓参りに行くという。そういえば、今日は秋のお彼岸であった。すっかり忘れていた。遅ればせながら、自分も明日にでもお墓参りに行こうと思った。 O氏は手ぶらで、「忘れて来た!」という。今日の待ち合わせの目的の、O氏自身の著書を、玄関口まで出しておいたのに、忘れてきてしまったという。奥さんを図書館に待たせて、家まで取りに行くというので付き合った。 どうも、最近忘れっぽくて困る。コロナのウィルスの影響だろうかと、O氏は言う。去年の2月だったか、コロナに掛かったと聞く。O氏のお宅は40年前の新築住宅で、一度リニューアルしたという。一帯は一昔前の新興住宅地であった。 準備してあった本を 玄関から 持ってきた。その場で引き渡しを受ければよかったのだが、そのまま図書館まで戻り、受け取ろうとした所、二種類2冊ずつの積りが、 同じ本が四冊入っていた。どこで間違ったのか。 頼んだ方があいまいで、誤解を呼んだのかもしれない。結局、もう一度家まで戻って、あとを車で付いて行き、お宅の前で本を受け取り、お金を払った。 段取りがいくつも間違って、行ったり来たりの2往復、Oさんとは自宅前で、お互いに年は取りたくないものだと、笑って別れた。

自民党総裁選が公示となった

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  自宅脇の通路に咲く、色褪せたペチュニア 毎年雑草のように芽を出し 咲くペチュニアだが 先祖戻りしているのだろうか    2025.9.22 石破総裁の辞職に伴う、自民党の総裁選が今日告示となって、午後、テレビで候補者5人の所見発表演説会を聞いた。一人15分という短いものだったが、有力候補は、 高市早苗氏と 小泉進次郎氏との下馬評も聞こえてくる。いずれにしても、決選投票になるであろうという。 若い 小林鷹之氏は話には勢いがあったが、何しろ実績がすくないので、信頼を勝ち得ることはむずかしいと思われる。茂木敏充氏と林芳正氏は、不人気だった石破現政権に近過ぎて、出直しにはなりにくいと思われるだろう。   それで、人気を2分するのが、 高市早苗氏と 小泉進次郎氏である。 高市早苗氏は友人の憲法学者M氏が推している。ただ、人の話を聞かないのが欠点だという。そこを直せば、今までにない女性総裁として活躍できるのではないかという。 小泉進次郎氏は人の話はよく聞くけれども、彼の信念が見えてこない。特に対外政策では何も考えがないように思える。 日本の行く末がどうなってしまうのか、家の 息子は彼だけはお断りだと嫌う。 自民党の選挙での敗北は、結果を分析すると、自民党の鉄板地盤だった保守層が離れてしまったことだと思う。今はどの国も保守的な層が力を持ってきている。それらの層が自民党の姿勢にNOと言っているのだと思う。マスコミは政治資金の話が大きく影響したというが、そこだけに注目していても、離れた保守層は戻ってこないと思う。保守層から見れば、長く連立している公明党との関係で、支持に足る政党ではなくなってしまったと判断したのだと思う。 解党的改革というならば、自民党は一度、野に下ったほうが良いかもしれない。

誰がこんな21世紀を想像したか(4) 頻発する大地震 

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裏の畑はニラの花盛り 手入れを怠っていたので どこから来たのかニラが大繁茂 2025.9.21 日本で大きな地震が頻発するようになった始まりは、阪神淡路大震災だったと思う。 阪神淡路大震災は 1995年1月17日に起きた。あの震災では、自分の知人も多く被災した。神戸の町中のマンション住まいだった甥っ子のA君は地震後に外を見たら、いくつかのビルが横倒しになっていたと聞いた。 地震は50年周期で静謐と頻発を繰り返すといわれている。戦後50年はどうやら地震の少ない50年だったのだろうと思う。 阪神淡路大震災から30年、何と大地震が頻発したことか。 その大きなものを挙げてみると、  阪神・淡路大震災 1995年(平成7年)1月17日  震度6  マグニチュード7.3  鳥取県西部地震  2000年(平成12年)10月6日  震度6強 マグニチュード7.3  岩手宮城内陸地震 2008年(平成20年)6月14日  震度6強  マグニチュード7.2  東日本大震災   2011年(平成23年)3月11日  震度7   マグニチュード9.0  熊本地震     2016年(平成28年)4月14日  震度7  マグニチュード6.5  能登地震     2024年(令和 6年)1月1日  震度7  マグニチュード7.6 他に、小さな地震は日本のどこかで、ほぼ毎日のように起きている。  50年周期からすれば、あと20年、まだまだ地震が多発するかもしれない。今、最大の関心事は東南海地震のことになるが、阪神・淡路大震災の前だったか、あとだったか、東海地方に大地震が来るといわれて、会社でもいろいろな地震対策や避難訓練など、かなりまじめにやっていた記憶がある。 あの頃は地震の予知ができるとの話で、予知情報が出されたら、どう行動するのか、真剣に考えられていた。その後、どこでどうなったのか、地震予知は不可能との話になった。  東海地震の到来が言われて30年。いまも東海地方に巨大地震は発生していないが、その日は近付いているのかもしれない。一説には当地には昭和19年に大地震があったが、戦争中のことで、大ごとにされなかったという。先輩の諸氏からその体験を聞いたことがある。それゆえ、まだ地震の周期になっていな...

自分古文書(7)「死の閃光」(4)

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  ”死の閃光” (ネットより借用)  2025.9.20 午前、金谷宿大学「古文書に親しむ」講座(初心者)、午後、同(経験者)の2講座を実施した。冷房は要らないかと思ったが、窓が広くないので、外気を入れるのが難しく、緩く冷房を入れてもらう。外気はもう秋である。 自分古文書「死の閃光」を続ける。   ****************************************************    コンクリートの物干し台は素足にひやりと心地好かった。確かに保夫には見納めにという気持があった。しかし星空を見上げた頃にはそんな心はどこかに行ってしまっていた。月の無い夜空に星々は自由に煌いている。それを二分するように天の河が弧を描いてゆっくりと流れている。そのきらきらと輝く流れをじっと見ていると、千仞の谷底を覗き込んだ時のような激しい牽引を感じた。保夫は軽い眩暈を覚えてふらりと手摺に掴まった。それと同時にあの飛び込みたいという不可思議な衝動に駆られた。  〈あの何十万光年もの彼方の河に身を踊らせることが出来たらどんなにか幸福なことだろう。僕は今や風前の灯のこの星を去って永遠に果てし無く落ち続ける。そしてその間に雑多無用な感情や知識を排気ガスのように吐き出して行くのだ。ついには僕の心は渾々と湧き出ずる泉のように純化されるに違いない。そうなった時にはたとえあの河には達しなくとも、それを構成する一つの美しい星にはなれるかもしれない。もしも僕が星になったら真奈子は何て言うだろう。『あんたって、わりと勇気があるのね。見直しちゃった。』位言うだろう。そしてさらに、‥‥‥。〉  夢想は空を駆け巡り死の恐怖を一と時忘却の柵の奥へ押し込める。保夫は暫しの間忽然と星空を仰いでいた。  あの白い閃光が襲ったのはこの時であった。南東の山際から発して、一瞬全天を白夜にした。その刹那星々は畏怖の余り失せた。しかし白光が音も無く消えると同時に何事も無かったかのように甦った。  〈何だろう。花火? 違うな。稲光? いや稲光とすれば雷鳴を伴うはずだし、第一季節はずれだ。それじゃ一体何だ。〉  保夫ははっと気付いて愕然とした。  「死の閃光!」  背から冷水を浴びせかけられたように保夫はぶるぶると震えた。  〈あの方向は阪神地...

自分古文書(7)「死の閃光」(3)

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  ヒガンバナには白花も混じる (昨日の続き)    2025.9.19    今朝、3か月ぶりに涼しいと思った。いよいよ秋が来るのだろうか。 午後、一枚上着を持って、静岡の駿河古文書会に出席した。  自分古文書「死の閃光」の続きである。 *******************************************************  夕食後保夫は気分が悪いと言って早々に2階に引き籠もった。父と顔を合わせていたくないこともあった。しかしそれ以上にこの世から逃避出来ないものなら、せめて眠ってしまうことによって自己の意識からだけでも逃げ出したかったからだ。蒲団を敷くと身を投げるようにして潜り込んだ。  〈どうせ滅亡するものなら僕の寝ているうちに滅亡してしまえばよい。この眠りがあの小さな太陽によって永遠の眠りに繋がれるのなら、僕はそれに耐えることが出来るだろうから。〉  しかし眠れなかった。同じように前方間近に死を見ていながら吸い込まれそうになる眠りと懸命に闘っている雪山遭難者とは、保夫は全く逆の苦しみを味わっていた。降り出した雨が水面に作る波紋のように、断片的な事件や友の顔が脳裏に浮かんでは消え、消えては浮かぶ。  〈筒井真奈子。美人じゃないけど大きな目がクルクルと良く回るやつ。サークルではハキハキと何でも提案した。僕はそれに対して概ね消極的だった。『そりゃぁ無理だよ。そんな事無茶だ。』ある時怒って叫んだっけ。『あんたみたいな優柔不断の意気地無し、嫌いよ!』って。あの時の君の目は綺麗だった。嫌いと言われて初めて、僕は君が好きだったことに気がついたのだった。でもその後君は会っても口を効いてくれない。それゃぁ、その責任は僕にあるんだろう。でも本当にそうなんだろうか。いいさ、今となってはもう。みんな一度に灰になるのだから。〉  保夫は輾転反側してとうとう俯せになる。  〈山岡誠一。あの青白い面長の、いつも何かに怯えた目をした顔。皆んな君をモヤシと言って揶揄ったっけ。でも君は僕の唯一無二の親友だった。怯懦は怯懦同士手を繋ごうと言って、君との間に結んだ『怯懦同盟』は僕の唯一つの支えだったのに。去年の秋、君自ら盟約を破って一人で黙って逝ってしまった。君の怯懦も結局仮面にすぎなかったのか。あ...

定期検診のS医院で

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  近所のあぜ道のヒガンバナ 外へ出るのも憚られる酷暑 気付けば秋は確実に近づいている  2025.9.18 午前中、定期検診で、S医院へ夫婦して行く。2か月に一回の検診で、今日は血液検査があるので、朝食を食べないで、その分、少し早く9時前に出かけた。食事は検診後になるので、いつもより早く行った。今日は医院前の駐車場は満杯で、向かいの駐車場に入れる。 それでも、この医院は手際よく来診者をさばいてゆくようで、待合室がいっぱいのようでも、次々に来診者が診察を終えてゆく。  血縁検査は別室で、看護師さんが行う。いつも血管が細くて、苦労しているようだったから、「毎回同じ位置から血を取るのだから、少しは血管が太くなれればよいのにねぇ」と話す。 ちくっとすると断るので、「昔より採血の針が細くなっているみたいだね」と看護師に聞くと、「まだ他の医院では昔のままの所もある」と答える。「だからか。針を射すとき、昔のように痛くない」と感想を述べた。針は細くなっても、採血時間はそんなにかからなかった。 医師が、「このごろ、コロナの患者が増えて」と話す。「もう峠は越えたと思うが、インフルエンザは、まだこれからだから、次回の検診時にワクチンを案内します」と話す。そういえば去年は インフルエンザの予防注射を生まれて初めて受けた。 まあ、コロナもインフルエンザも、自分に言わせれば、医院の周辺で起きていることで、我々老人たちの 生活領域や コミュニティでは無関係な気がする。   

金谷郷土史研、岡部英一氏講演会

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金谷郷土史研究会、岡部英一氏講演会 「緑十字機決死の飛行・一言坂の戦い」  2025.9.17 午後、金谷郷土史研究会主催の岡部英一氏講演会を開催した。テーマは岡部氏が気を利かせて、当初予定の「 緑十字機決死の飛行 」に加えて、「一言坂の戦い」との二部仕立てになった。 当研究会の会員は10人程度であったから、島田の 「城山を学ぶ会」 や、「 島田近代遺産学会」、金谷宿大学の「金谷宿と東海道を知ろう」講座などに声をかけて、20人弱の人が集まった。 講義を聞いて、「緑十字機はどうして不時着することになったのか」「信玄は何が目的で遠州に攻めて来たのか」。この二つの疑問は残った。さらに言うならば、「NHKは 緑十字機のことを、どうして取り上げようとしなかったのか」という疑問が残る。   岡部氏の終わってからの感想で、テーマは「緑十字機」に絞った方がよかったという。 「一言坂の戦い」では十分な話が展開できなかったとの思いがあるのだろう。いずれにしても、今回の講演会を自分の講演の最後にすると おっしゃる。まだまだ岡部氏の話を聞きたい、聞かせたい人たちはたくさんいるのだから、そんなことは言わないようにして貰いたいと思う。 まずまず盛会に終わって何よりであった。岡部氏には御礼申し上げます。  講演内容に触れようと思ったが、簡単に触れられるようなものではないと思い、止めた。自負出版で「緑十字機決死の飛行」並び「 一言坂の戦い 」が出ているので、お求め下さい。また、遠州地区の図書館には所蔵されているかもしれません。

誰がこんな21世紀を想像したか(3) コロナ騒動

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  コロナウイルス (ネットより写真拝借)  2025.9.16 これだけ衛生環境も整った21世紀に、紛争が絶えない後進国ならばいざ知らず、文明国といわれる先進国に至るまで、「コロナ」と名付けられたウイルスが世界に蔓延するとは、誰が想像したであろう。 「コロナ」とはギリシャ語で「王冠」のことをいうらしい。子供のころに、太陽を描く時には、円の周りに放射線状に線を画いて太陽らしくしたが、その線も「光冠」(コロナ)と呼ばれる。顕微鏡で見ると、コロナウイルスは円形に突起が出た形で、このコロナに似ていることから、そう名付けられたという。 「コロナ」騒動が日本に引き起ったことは、ここで繰り返す必要はないだろう。コロナは有名な芸能人の命を奪って、日本の隅々までその存在を知らしめた。  自分も経験したことのない疫病の蔓延。いつまで続くのかと、誰もが苦しんだけれども、自分は、コロナ騒ぎは何れ終わるものだと思っていた。自然界に一人勝ちはあり得ない。猛威を振るうコロナも、何れ周囲と共存出来るまでに勢力を弱めるはずだと思った。対象である人を殺してしまえば、コロナも生きて行けない。変異を遂げる中で、人を殺さない程度の弱いコロナが生き延びるわけで、何れインフルエンザと同程度のウイルスになって、終息を迎えるだろうとは、想像していた。 かつて、セイタカアワダチソウが勢力が強く、根から他の植物を殲滅する物質を出しているから、今に人の手が入らない野山は、すべて セイタカアワダチソウに取って代わられるだろうと、聞いていた。ところが、今も セイタカアワダチソウは土手などに見られるが、ススキなどと共存して違和感を感じることはない。これが自然の営みだと思う。 それで、コロナも終息を迎えた。自粛々々と、多くのことをコロナ流行を理由に中止をしてきた。コロナが終わったのだから、何れ元の生活に戻れるだろうと、みんなが期待した。しかし、今、元に戻らないことがたくさんあることに、気付かされるのは自分だけではないと思う。   地区が区民のために実施していた、お祭りなど数々の行事の中に、今もって復活していないものが多くみられる。中止をしてみて、その行事が無駄であったことに気付くならまだしも、その楽なことに気付いてしまったとしたら、残念である。  同じことが個人の行事に...