投稿

1月, 2026の投稿を表示しています

自分古文書(16)遠江三十三観音巡礼(20)

イメージ
  正林寺門前   2026.1.31   観音巡礼が、再開されたのは前回から10ヶ月後のことであった。理由は本文に記している。ともあれ9回目の巡礼の記録を載せよう。     巡礼団無常の此岸で巡礼を再開する   遠江三十三観音巡礼⑨   第二十九番 国源山正林寺 ~ 第三十一番 紅梅山菊水寺 日 時  平成六年十月三十日(日) 天候 曇りのち、時々晴れ 天気がはっきりしないのは南方海上の台風の影響らしい。前回の巡礼の直後、鈴さんに娘さんの急逝という不幸があって、10ヶ月という長いブランクになった。この間に、鈴さんは定年を迎え退職された。そして、今回、ようやく再開に至った。巡礼もあと二回で満願となる。 昨日、長島ジャイアンツが西武を破り日本一となった。前評判では西武が断然有利で、第一戦は大勝した西武だったのに、一寸先は闇が世の常である。明日あることを当てにせず、今日歩くことで心の安らぎを得られれば、信仰薄き我ら巡礼団にとって、それが最大の御利益である。ともあれ今日も元気に漫遊巡礼が続く。 【歩程】第二十九番‐正林寺へ、南へ10.4キロ 菊川の町を通り過ぎ、東名のインターの先で左へ折れる。菊川を渡った所に「菊川文化会館アエル」の大きな建物が見え、その前の広場で産業祭が準備されていた。巡礼中の我らは世事には係わることなく先を急いだ。 40分歩いて最初の休憩を取る。臼さんは雉打ちに行く。歩き始めると腸の調子がよくなるためか、臼さんの恒例行事である。横地城跡はここから2.5キロ行った山の上にある。時間があれば行ってみたい場所である。 丹野川は奥の丹野池を源にしている。この辺りでは有名な大きな溜池である。西側の山には「善勝寺の楠」と呼ばれる巨木がある。山にそれらしき樹相が見える。いずれそこへも来ることになる。橋を渡ったところで休憩を取り蜜柑を食べた。ここまで来れば正林寺もそれほど遠くない。かなりの歩きを覚悟していた割にははかどった。 丹野の丹は赤、あるいは辰砂と言う硫化水銀で、昔は朱色の塗料に使われていた。この先に「赤土」や「赤土原」の地名もあり、昔は辰砂を産したのかもしれない。調査してみたい。 前の坂道を「塩買坂」というと案内板にあった。正林寺は今川義元の祖父の義忠の終焉の地だといい、今川氏の菩...

古文書「喜三太の記録」を来年度のテキストに

イメージ
  古文書「喜三太の記録」テキスト表紙  2026.1.30 25日の北原先生の講演会の折り、先生から借りて来た、「喜三太の記録」という古文書を、今、古文書講座のテキストにすべく、作業をしている。  昔、北原先生の講座を受け始めて間もないころ、その抜粋を教材に使われて、興味深いと記憶に残っていた。今度、自分の講座でテキストに使いたいと思った。そして講座で使用が終わったら、その解読読み下し版を小冊子にして、皆さんに読んでもらいたいと思った。 北原先生は自分で保管するコピーを、原文所有の掛川図書館に許可を得て、貸して下さった。手にしたコピーは実に71ページまであり、コピー一枚には2ページずつコピーされているので、原文では142ページになる。思った以上のボリュームに驚く。これをテキストに使うと2年以上、3年くらいかかる量である。 ともあれ、テキストにするために、作業を進めて、9割ほど出来たが、この量では、自分が担当する2講座か3講座に分けて読んで行こうかと考えている。何とか一年で解読を終えてしまいたいと考えている。 テキスト化する作業を進めながら、気付くと内容を読み出している自分に気付く。今は解読作業ではないと気付き自分に言い聞かせ、作業に戻る。中々前へ進まない訳である。 金谷宿の商家から掛川の各和村の大きな農家へ婿に入った喜三太さんが日々発生する出来事を、テーマを付けて記録したもので、時代の動き、街道の出来事、火災・風水害・地震などの災害の記録、農家で起きる出来事など、多彩な内容である。 自らも病を得て、村役人を退役願いを出したり、快癒して復役したり、法多山の旅の記録も面白いし、秀逸なのは安政の大地震の記録である。これは、山崎久磨麻呂さんの「大地震能記」に匹敵するほど詳しい。読むのを自分で楽しみにしているが、これは4月からの新年度の講座用のテキストなのである。 

時代小説はもう卒業か

イメージ
  時代小説のまとめ売り何てあるんだ (メルカリより) 2026.1. 29     元来読書好きではあったが、現役のころには、時代小説を読まなかった。何か浮世離れしているようで、時代小説は引退してから読もうと、老後の楽しみに取って置いた。  引退してから、色々やりたいこともあって、それほど暇になったわけではないが、時代小説を自分の中で解禁した。主に文庫本だけれども、買って読むわけではなくて、その大半を図書館から借りて読んだ。購入して読むと、お金が掛かるだけではなくて、どうしても本が溜まってしまう。我が家には今まで購入してきた本が山になっている。これ以上は増やしたくなかった。  それから時代小説をどれくらい読んだことだろう。数えたことはないが、1000冊をはるかに超えて、1500冊ぐらいは読んだと思う。それぞれがそれなりに面白くて、遠い昔の江戸時代の話しだと思うと、どんな内容であろうと、無責任に、気が楽に読める。それに退職して始めた古文書解読の趣味、同じ江戸時代で何かと参考になった。  以下へ読んできた作家の中、読んだ本の冊数の多い順に、並べてみると、  佐伯泰英、風野真知雄、藤井邦夫、鈴木英治、鳥羽亮、稲葉稔、坂岡真、池波正太郎、佐藤雅美、藤原緋沙子、小杉健治、倉坂鬼一郎、井川香四郎、上田秀人 50冊以上読んだ作家だけでも、これだけ上げられる。これだけで1300冊位にはなるだろう。 さすがに図書館の在庫も、自分の気に入るものは、少なくなってきた。  ところが昨年、時代小説の作家が立て続けに亡くなった。     上田秀人    2025年 3月27日死去      藤井邦夫    2025年10月12日死去、    宇江佐真理  2015年11月7日死去   何れも顔も見たことのない人たちだったが、小説を通じて、かなり深い付き合いだったように思っている。遠い知り合いが亡くなった気分である。楽しんできた、その作家の作品はもう読めないのだと思うと、がっかりであった。 最近、そろそろ時代小説も潮時かと思うようになってきた。年明けて、図書館へ行くことも、がくんと減り、一ヶ月でほんの数冊しか読んでいない。時代小説を読むことを減った分、何かやることを考えねばなら...

自分古文書(16)遠江三十三観音巡礼(19)

イメージ
杖操山妙国寺 2026.1. 28   どうして写真がピンボケのままなんだと、言われることは分かっている。同行した皆んなに、観音巡礼の報告したものに写真を入れだが、かつては大きな写真は入れられなかった。小さい写真だからこの解像度で十分だった。その写真をそのまま使っている。もっとも、探せばどこかに元の写真があるはずだが、あえて探さなかった。三人とも、思い出だけを残して、あの世に旅立ってしまったから。 はっきり言おう。鮮明な写真を見たら、きっと涙が止まらなくなると思う。だからあえてそのままに置いた。この程度のピンボケでも、涙が出てくる。自分古文書として載せ始める時は、そんなことは考えなかった。歳を取ると涙もろくなるというが、それだけ多くの永のお別れをしてきたためだと思う。  ともあれ、続けよう。 観音巡礼8日目の巡礼記録の続きである。   【歩程】第 二十 六番‐妙国寺へ、南東へ1.0 キロ 先程の葬式は岩松寺の登り口の山本久夫さんの家であった。しかもご朱印はその家で預かっていると観音堂に表示されていた。予感が当たった。近所で聞くと、せっかく来たのだから貰って行けばよい、と勧められる。出棺した後で、待機していた隣組の人に頼む。何処にあるのかと自信無げであったが、程無く家の中から捜し出して来てくれた。仏さんは92歳のおばあさんで、大往生の部類であろう。留守番に悲壮感はなかった。 一度通りまで戻り、東海道線のガードを抜けて妙国寺に至る。無住のお寺に筆で大きく『砂の灸』と書かれていた。月に一度この寺で『砂の灸』なるものが行われるらしく予定が表示されていた。 第二十六番 曹洞宗 杖操山 (じょうそうざん) 妙国寺 (みょうこくじ)      はるばると 参りておがむ 観世音 罪深くとも 救い給えや 【本尊】十一面観世音菩薩   【所在地】金谷町 神谷城 ( かみやしろ ) 【歩程】第 二十 七番‐永宝寺へ、南西へ4.8キロ 山越えをするつもりで、切り割になった古い峠を見つけて越えたところ、向こう側はゴルフ場であった。「ホロンゴルフコース」といい、最近出来たものらしく、手元の二万五千分の一地図には無かった。横切って進む訳にも行かず、結局引き返し倉沢の部落を通って遠回りすることになった。 道畔に「孝子岡本弥平の墓」があった。岡本弥平という人はどう...

軽々に消費税全廃などというが

イメージ
   こんな多党化はどうなんだ (ネットより拝借)   2026.1. 27 いよいよ総選挙が始まった。どこが勝つのかは分からないが、高市人気は相当なものがある。 もう皆んな忘れてしまったのだろうが、石破前首相は何をやっていたのだろう。連立していた公明党に気を使い、政治献金問題に縛られて、結局、何もできなかった。衆院選と参院選にこっ酷く連敗し、何も出来ない中に政権を放り出してしまった。何より石破元首相は、表情が終始暗かった。トップがそれではなかなか上手くゆくものも、ダメになってしまう。終り頃には、テレビに映る顔も見るに辛かった。 一方、高市政権は短い期間に、随分たくさんのことに切りを付けた。何といっても公明党が連立から離脱したことで、色々な決断が容易になったと言えそうだ。表情もにこやかで、言葉に力がある。 中道改革連合とかいう訳の分からない新党も出来た。どこまで本気なのか。参院はそのままだから、きっと衆院選が終わったらまたもとに戻るのだろう。こんな子供だましで、選挙民が付いてくるはずはないと思うのだが。 どの党もどの党も、消費税を減らす、あるいは全廃などと気楽にいってくれると思う。自分が企業の会計に従事しているとき、消費税が始まった。外国ではどの国でも導入していた消費税、これを取らないと法人税や所得税で賄わなければならない。どちらも高くすれば日本の競争力は落ちる。いや高額者は安い外国に逃げていく。右肩上がりの日本経済が終焉したとき、消費税を持たない日本は他国に負けてしまう。本当にその通りだと思った。 そんな理解で、企業も事務負担増を覚悟して、導入に協力したことを思い出す。当社に関与されていた元国税庁上りの会計士の先生は、消費税を導入のために奔走され、講演などもたくさんされて、過労が続いたのであろう。消費税の目途が付いたころ、前触れもなく、突然急死された。今、思い返しても、導入には大きな決断と大変な負担が必要だった。それでも、日本の未来を考えると、消費税の導入は欠かせないと思った。  それを、いとも簡単に全廃などと言ってくれるではないか。消費税が人々の生活を苦しめているって本当か。今の時代、全廃しても、その分だけ値上げになって、効果が無かったことにならないか。全廃してしまえば二度と消費税は取れなくなる。大切な企業も人も、税金の安い...

SNSって何だ? SBSとかSOSなら知っているが

イメージ
SNSに51件のメッセージが とても見る気にはならない 送られた方、ごめん  2026.1. 26 金谷郷土史研の事務局のN氏から「データーを送りたいのだが、SNS使えますか」と聞かれた。「SNSって何? SBSやSOSなら知っているけど」もちろんSNSの言葉は聞いたことがあるが、使ったことはない。  結局、先週の水曜日の、金谷郷土史研の例会にスマホを持参した。(自分のスマホは不携帯スマホだから、わざわざの持参になる)SNSを開いて見せて頂いた処、何と51通ものメッセージが入っているではないか。誰ともSNSについて、話したことはないのに、である。 「おかわりありませんか」「講座、所用で欠席します」「あけましておめでとうございます」などなど。ところがそれぞれが電話番号は書かれているけれども、どこのだれかが分からない。多分登録しておけばわかるのだろうが、これでは何もわからないと同じである。まあ、見てもいない自分がクレーム付けるのもおかしいけれども。現代の人は、こんなもので意思疎通を図っているようだ。見てもくれないSNSに、情報を入れてくれた方には、随分失礼をしたことになるのだろう。 実は、20年前、ブログを始めた時から、その方面の知識は止まっている。自分は専ら、江戸時代に遊んでいるから、そういう知識はうるさいだけで、気にもしないできた。一度だけ、地区の総代をした一年だけは、自治会長が何でもというので、ラインを繋げたことがあったが、役目を終えたら、即、利用を止めた。 エックスだとか、インスタグラムがとか、耳には色々入ってくるが、気にしなければ何でもない。もちろん詐欺にあうこともない。そんなものに気を使うくらいなら、古文書を読み進めている方が、余程楽しい。まあ、こんな年寄りがいることも、世の中の人は配慮に入れて、仲間外れにはしないでもらいたい。そんなことを思った。SNSを教えられた今も、それを利用する気にはなっていない。難儀な年寄りだねえ。 ところで、送ってもらったデーターはどうなったかって、それがどうもよくわからない。まだ送られて来ていないような気がする。まあ、必要ならそのうちに連絡が来るだろう。

みんくる歴史講演会と防空監視哨

イメージ
静岡城北公園のスイセン (1月23日撮影)    2026.1. 25 午後、「みんくる歴史講演会」に行った。演題は「『大井海軍航空隊空襲の記録』を読む」で、講師は北原勤先生である。 北原 先生 は、掛川図書館主催の古文書講座をされており、自分は20年近くもその講座を受講している。おそらく、もっとも長い受講者の一人だと思う。 ある時、公民館の館長さんに、戦中・戦後の歴史の講演会を企画したいのだが、話を聞きたい、 戦中戦後の方々が 皆んな年齢を重ねて、講演に応じて貰えなくなっている。だれか、良い人はいないかと聞かれて、 北原先生の名を挙げたことがあった。その後、 北原先生に 引き受けて貰えたと聞いた。 話は、戦後、戦争関連の多くの書類が廃棄された中で、藤枝の 防空監視哨 の記録を、自宅に残していた方がいて、提供された記録には、終戦直前までのこの地区の米軍の空襲の様子が、 監視哨から見聞きしたままに、細かい時間まで記載されていて、牧ノ原大井航空隊 の空襲の有様も肉眼で観察されている。 そんな記録を読みながら、島田や牧之原の空襲の実態に迫ろうとする講演であった。 当地へ来て60年経つけれども、当地での戦争体験もない自分には、それほどの興味を引かれるものではなかったけれども、情報がほとんどなく、空襲の実態を知ることが出来ない地元の皆さんには、大いに興味を引かれる内容だったのではなかろうか。 自分が、唯一、気になった情報は、米軍の空襲に備えて、全国の町々に「 防空監視哨 」という米軍機の見張り場が設けられ、在郷軍人が中心になって、警察や消防などと協力し、米軍機の動きを即座に、各 防空監視哨で情報を交換し、空襲警報などの警報を出したという話であった。 自分の親父は、三度軍隊に招集されたと聞く。一回目は中国戦線に行き、二度目は鳥取教育隊の軍曹になり、三度目は在郷軍人として地元で勤めたとは聞いていた。しかし、詳しい話はしたがらず、自分も早くに故郷を出てしまったので、聞く機会もなかったが、思うに三回目の在郷軍人としての勤めは、 「 防空監視哨 」だったかもしれないと思った。 お袋が、空襲警報の出る度に、兄たち二人を連れて、防空壕へ避難したと話していた。田舎で、爆撃を受けることはほとんどなかったが、舞鶴などへの通り道だったためであろう。空襲警報は度々あった。父親のいる...

自分古文書(16)遠江三十三観音巡礼(18)

イメージ
金谷石畳 (お国すべらず地蔵の祠が見える)   2026.1. 24   ようやく、桑原藤泰が記した「大井河源記」解読版が出来た。歳代記「幕末編」、「明治編」、大地震能記、に続いて、大井 河源記「前編」「後編」と、5冊の自家製冊子が出来たことになる。古文書だけれども、解読の素養がなくても読めるようにと、作った解読版である。できるだけ多くの人に読んでもらいたいと考えている。   観音巡礼は、前回から3ヶ月後に実施した。8回目の巡礼の記録である。     巡礼団行く手をゴルフ場に阻まれる   遠江三十三観音巡礼⑧    第二十五番 松島山岩松寺 ~ 第二十八番 拈華山正法寺  日 時  平成五年十二月二十三日(木)天皇誕生日 天候 晴れのち、時々曇り それぞれの予定が合わなくて、長いブランクの後の巡礼がようやく実現した。それも、先の土曜か日曜の予定でいたところ、連絡の行き違いがあって、土曜日の朝、和さん・臼さん両氏に待ちぼうけをくわせてしまった。そして天皇誕生日の今日、再度計画し直したものである。昨夜、風花が散り、今朝は地面が所々うっすらと白くなっていた。前回自宅まで歩いて帰ったから、今回は待ち合わせの金谷駅まで歩いて繋いだ。 【歩程】第 二十 五番‐岩松寺へ、南へ6.0キロ 金谷駅駅頭では、すでに三人とも待ち兼ねていた。駅前ガードの傍らの一里塚跡に、旧東海道の石造りの道しるべが出来ていた。「島田宿へ三三町(三.七キロ)」「日坂宿へ一里二〇町(六.二キロ)」とある。ごく最近に出来てニュース種になっていたものである。「東海道ルネッサンス」の一貫で、これから旧東海道の街道筋に、およそ一〇〇基ばかり出来るのだという。金谷はその第一号であった。 石畳の登り口の庚申堂の手前に、石畳の博物館と休憩所を建設中であった。島田の川越博物館の向こうを張って、立派な建物を建築中だった。臼さんの話では、博物館の土地は第一製薬を金谷に誘致する際、製薬のお偉方の住居を建てる予定で供与した土地だったが、住居を建てずに終わり、この度、博物館用地として製薬より提供されたものだという。 石畳の坂の半ばに八角の地蔵堂が出来ていて、「すべらず地蔵」という。坂道を往来する人々が石畳に滑って転ばないことを祈念して、最近造営されたものとい...

自分古文書(16)遠江三十三観音巡礼(17)

イメージ
  今日の富士山 静岡城北公園より    2026.1. 23 午後、駿河古文書会に出席する。前回会の時、 駿河古文書会、 基礎コースの講師をお願いしたいと頼まれた。一回だけのことと思い、了解したが、今日の話で、どうやら講師になる人が減ってしまい、年間通してやってもらいたいと言う。 日は年間通して火曜日の午後で、年に24回を何人かで手分けをしているらしいから、年に数回程度のことだろう。自分が実施している講座とは違い、教材は駿河古文書会で実施した古文書を教材とするようだから、それほど負担にはならないと思う。新しい出会いが楽しみでもあるから、まあいいか。  観音巡礼7回目の記録の続きである。七回目のゴールは自宅だから、気分は楽であった。 【歩程】第二十四番‐大代の観音寺へ、西へ6.8キロ 阿波々神社への石段は崩れかけていて、通行禁止になっていた。森の中の散策コースを一登りで山頂の本殿に至る。近年新築された社殿である。脇を少し入った所に遠州七不思議の一つの「無間の鐘」を埋めた井戸があった。案内板に「昔衝けば無限に御利益があるという欲の深い鐘を造ったところ、反対に様々な災いが起きた。そのため、その鐘をこの井戸に埋めてしまった」という謂われが書かれていた。 粟ヶ岳の休憩所は管理者が変わって蕎麦などの軽食が出来るようになっていた。かつて食事が出来ると思い、弁当を持たずに登ってきて、何もなくて難儀したのを思い出した。おにぎりも持参していたが、早速蕎麦を注文する。阿波々神社の境内で、秋の野草を摘んでいたおばさんが、ここの管理者の奥さんだった。摘んで来た野草を休憩所内に生けていた。 たけ山の話をしていると、主人が、あの山には車で登る道はあるのか、と聞いて来た。大代の方から電波塔までは登れる、と答える。こちらから尾根伝いでは歩いて登ったと言うから山の好きな夫婦のようだ。休憩所はお昼になって、地元の中学生であろうか、女子ばかり20人ほど登って来て賑やかになった。 安田への下りは昔の古い山道を下る。途中から道が判らなくなるが、構わず下って林道に出た。大代へ下りそうになる所を、峠を一つ越して安田の集落へ戻った。東山へ下って車道を来るよりも少しは早かったと思う。 安田の大シイは、県指定天然記念物で、根回り18.5メートル、目通り4メートル、樹高26.9メ...

トランプマジックの種が知れた

イメージ
    ダボス会議でトランプ大統領 (ネットより拝借) アップで見ると随分と年寄りだなぁ  2026.1. 22   今日はこの冬で最も寒い日になった。 故郷の兵庫県豊岡市は積雪46センチとか報道があった。寒さはまだまだ続きそうだ。 アメリカのトランプ大統領は、グリーンランド領有に意欲を示し、武力も関税もフル稼働して、何が何でもアメリカの領土にすると、息巻いていたが、今日、武力も関税もやめると、ダボス会議で発言したという。 何となく想像できた結末であった。 トランプ大統領は他国にも、自国民にも一切耳を傾けず、国際法も国内法も無視して、自分の好き放題に政治を行って、さぞや気分は良いだろうと思う。このしっぺ返しはいずれ受けることになるだろうが、その時にはもう自分の寿命は尽きていると高を括っているのかもしれない。 トランプ大統領が唯一注意を向けているのは、相場である。今回のように、自分の発言で、株、ドル、債券が同時に、一気に暴落することをもっとも恐れている。つまりは、自分の財産が大幅に減じることには耐えられない。それは、金儲けだけに70数年生きて来た、トランプ大統領の性(さが)だと思う。それは、トランプ大統領にとっては、自分の発言を前触れもなく、根底から変えてしまう理由になるのだろう。 トランプマジック の種が知れたと思った。  これからも、同じようなことが、トランプ大統領の在任中には起きるに違いない。しかし、トランプ大統領の言動を測るには、相場の動きを見ていることだと、さすがにアメリカ国民も悟ってきたに違いない。 それにしても、アメリカ国民は厄介な大統領を選んでしまったものだ。これからまだ三年も我慢しなければならないアメリカ国民も、気の毒としか言いようがない。今、79歳6ヶ月、自分よりも三日遅く生まれた、なまいきな後輩の話である。

金谷郷土史研で「歳代記」をテキストに話す

イメージ
  お札が降ってきたら表に祭壇を祀る作る    2026.1. 21 午後、金谷郷土史研。N氏の勧誘で、御夫婦で入会される方が一組出て、現在14名の会員となる。長期離脱の2名を除いても12名になり、随分と賑やかになった。 今日は、自分が話をすることを請け負った。課題は「歳代記」という古文書、これの解読版を「幕末編」と「明治編」に分けて、我が家のプリンターで2冊の冊子にして、それを皆さんに配り、教材にして2時間話した。 「歳代記」は幕末から明治にかけて、金谷宿に在住の松浦幸蔵氏が記録されたものである。川越しで有名な 大井川の 川役人をされていた関係で、中々の情報通であった。その内容には、歴史の教科書では教えない郷土の歴史がくわしく描かれて、大変興味深い。 今日、話したのは、一つは幕末に街道筋に起きた「ええじゃないか騒動」の詳しい顛末である。街道の宿々に伝搬するように発生した 「ええじゃないか騒動」について、おそらくこれだけ詳しく書き残したものは全国探してもないと思う。 事は天から寺社のお札が降ってくるところから始まる。降ってきたお宅では表に祭壇を設けてお札をお祭りする。(上の絵のごとく)それと共に、酒肴を振る舞い、餅や銭を撒いたりして祝うのである。お札が次々に降り、降ってきた家は次から次へと出てくるから、宿中がお祭り騒ぎになる。それが半年も続くのである。明治維新の前年の話で、一方で物価が高騰して、あちこちから、きな臭いうわさが伝わってくる。そんな時代の騒動だった。 かつて、自分も古文書講座でこの解読を聞いて驚いた。「ええじゃないか 」の話は、てっきり江戸時代に何十年置きかに、お伊勢参りのブームがあって、たくさんの人がお伊勢参りだから「 ええじゃないか 」と仕事を放りだし、徒党をくんでお伊勢参りにゆくことがあった。そのことを言うのかと勘違いしていたが、この「 ええじゃないか騒動 」は江戸末期の社会不安が引き起こした社会現象だった。 その話に一番時間を掛け、「善光寺の御開帳」「中山新道落成のお祝い」など、いくつかの話をして、是非ともその冊子を読んでもらいたいと話した。読めば色々な疑問も湧いてくるだろうし、調べてみようと思うことも出来てくると思う。ぜひこんなことを皆んなで調べてみるのも、この研究会の意味になると思う。 気持が伝わっただろうか。話し...

主治医と雑談できたが

イメージ
島田市 S医院 (ネットより拝借) 2026.1. 20 今朝、2ヶ月に1回の定期検診に、夫婦して S医院に 行く。9時20分ごろに着くと、駐車場に車が数台しかなく、中に入ると3、4人しか、診察待ちの患者は居なかった。2ヶ月前には同じ頃、溢れかえっていた待合室も閑散としている。 半年に1回の胸のレントゲンを撮る。花粉症が高じての気管支喘息が自分の持病だから、定期的にレントゲンを撮っている。画面の画像を過去と比較してみて、肺には異常なしと診察の後、胸と背中に聴診器を当てて診察は終わる。今日は診察待ちも少ないから、少し雑談をしようと思って入った。いつも溢れていてとてもそんな気分にはなれないだろうと、遠慮したていたから。 インフルエンザが治まったのかと聞けば、A型は治まり、B型が子供たちに少しはやっているらしい。前回11月の時は患者でいっぱいだったというと、時間帯で暇な時もあるという。コロナも少しずつ患者さんはいるが、風邪と変わらないから気付かずに済んでしまう人も多い。コロナに免疫はあるのかと聞くと、3か月とか6ヶ月というが、S医師も2度コロナに罹ったと聞く。免疫は余り当てにならないようだ。 S医師は元呼吸器科の医者だったので、20年ほど前、片方の肺を手術で取ってしまった人がいて、手術後5年の治癒期間をお遍路で回っていて、自分よりも余程元気で、今も時々連絡しあっていると話し、片肺でも大丈夫なものかと聞けば、心臓のある左なら、右に比べて少し小さいので取っても大丈夫だろうという。しかし、この歳で気管支喘息の自分は無理かもという。 近頃、同年配の友人の何人かが胸を病んでいる。今は昔と違って有効な治療法があると聞くが、との質問には、自分も専門を離れて(町医になって)詳しくないが、有効な治療法が開発されて、生存率がずいぶん高くなっているとは聞いている。 短い時間だと思ったが、話し終わって、待合室に出てみたら、いつの間にか、待合室がいっぱいになっていた。えー‥‥‥。悪いことをしたかなあ。しかし、たまには医者とも雑談をしてみるべきである。

自分古文書(16)遠江三十三観音巡礼(16)

イメージ
粟ヶ岳栄西禅師像 2026.1. 19  朝から明後日の金谷郷土史研究会の資料作り。「歳代記」の解読版を会員に提供し、そのいくつかのエピソードを話すつもりである。  昨日に続いて、 観音巡礼7回目の記録の続きである。   【歩程】第二十三番‐粟ヶ岳の観音寺へ、北西へ2.0キロ 東山バス停には掛川バスが時間待ちをしていた。粟ヶ岳への登りは、背に日差しを一杯に浴びて暑くなることが予想されたので、そばの自動販売機でペットボトルのジュースを仕入れた。 しっかりと整備された「粟ヶ岳ハイキングコース」の道標をたどりながら、山を輪切りにするように、幾重にも付けられた自動車みちを何度も横断して、直登に近い登り方で高度をぐんぐん稼いだ。 人家が途切れると、休む木陰も無い草刈場や茶畑が続いた。やっと木陰を見つけて休憩をとる。下から吹き上げる風はさすがに涼しい。今年は冷夏のため蝉の羽化が遅れ、八月も後半になってクマゼミもツクツクホウシも一斉に鳴き出した。九月末の今鳴いている蝉はミンミンゼミである。懸命な鳴き振りだが、心無しか力がない。山登りのあちこちに、赤紫の萩の花が今盛りと咲いている。 斜面が急になり、道が森の中に入る。もう粟ヶ岳山頂に残された巨木の森も近いようだ。行きつ戻りつを繰り返し、道路へ出たところが、粟ヶ岳の観音寺の前であった。そこで四つ又の鉤のついた竿と、繋ぎ竿を持った、怪しげな二人の男に出会った。臼さんは着生の蘭類を採集しているのだろうという。立派な道具から見てプロかもしれない。 粟ヶ岳の観音寺には何度か来ている。今は誰の管理に委ねられているのだろう。放置すれば10年とたたないうちに荒れ果ててしまうだろう。昔の建物で彫刻などにも手が込んでいて、大切にしたい文化財である。   無間山観音寺 第二十三番 曹洞宗 無間山 (むげんざん) 観音寺 (かんのんじ)      ちさとまで 一目に見ゆる 男山 仏の誓い たのもしきかな 【本尊】十一面千手観世音菩薩   【所在地】掛川市東山淡ヶ岳   (7日目続く)  

自分古文書(16)遠江三十三観音巡礼(15)

イメージ
粟ヶ岳を望む   2026.1. 18 観音巡礼は、前回からわずか二日後に実施した。7回目の巡礼の記録である。     巡礼団日差しに背を焼き粟ヶ岳に登る    遠江三十三観音巡礼⑦   第二十二番 天王山観泉寺 ~ 第二十四番 岩崎山観音寺  日 時  平成五年九月二十五日(土) 天候 曇りのち、晴れ時々曇り 曇っているが、一昨日と打って変わって、良いお天気になりそうである。前回からわずか40時間しか経っていないが、前回は雨で無理をしなかったため、体に痛い所はない。濡れた靴が乾かず、皆んな靴が変わっている。僕は靴を洗わずそのまま乾して同じ靴で来た。 掛川駅から今日も貸切りと思っていた所、南米系の外国人が乗ってきた。制服姿でヤマハに行くようだ。不自由な言葉で、バスの運転手にこのバスで良いのかと聞いている。さらに出発間際に若い女性が駆け込んで乗る。 日坂でバスを下りて、地図を見て今日の予定を話す。東山へはバス道を避け、古くからの山越えの道を選ぶ。さらに粟ヶ岳に登り、安田から大代へ、昔の道に出来るだけ忠実に下って行きたいと。 取りつきの道でいきなり迷うが、地図通りにやがて茶畑の広がる山の上に出る。縦横に走る高圧線で、地図上の現在地が判り、正しい道を登っている事が確認出来た。日が差し始め、暑くなりそうである。 【歩程】第二十二番‐観泉寺へ、北へ5.1キロ 農道の途中に地蔵尊を祀った祠があった。農道として整備したのは最近かも知れないけれども、古くから使われた生活道だったに違いない。農道の行き着く先の山麓に、御林の茶工場の青い屋根が見える。 御林茶工場前で顔見知りの組合員に会う。四茶が今日から始まるので準備をしている。10日位の予定だが、茶価が安ければ切り上げるという。 道路が交差する小さな峠を越し、山の中腹を平坦に弧状に続く旧道を行く。気持の良い道で人家も所々ある。こんな所に住んで早起きし、朝もやに煙る景色を朝一番の新鮮な目に映せたら、最高にハッピーな気分になるだろうと思う。 下り始めて富士東茶農協が見えてきた頃、人家の点在する北側の谷間の一段高い小山に、集落のシンボルのように観泉寺の新しい甍が見えてきた。 観泉寺本堂の外観は完成しているように見えたが、まだ内装の工事中だった。ちょうど本堂脇からこの寺の住職の尼僧が出てきた。テレビに出る霊媒師で涙...