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ワードのフリガナ入力で、ひらかな変換が出来ない!

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庭のシュモクレンが一斉に咲き始めた 2026.2.28 パソコンが新しくなって、とまどうことばかりだが、ここまで何とか凌いできた。今日、ワードを使っていて、漢字にフリガナを振ろうとしたが、入力がすべてアルファベットになって、ひらかなに変換できない事態が発生した。これでは満足に古文書の資料が作れないではないか。 色々とパソコン上で、あれこれと試みてみたが、どうにもならず、仕方なく購入した店に聞こうと電話をした。 電話に出たのは女性で、原因がわからない。ここでは何とも答えられないという。今までのパソコンでもワードで普通に出来ていたのだからというが、反応は「わからない」というだけ。最初にこの電話は録音させてもらうと断られている。 これ以上言うとクレーマーになると思った。 質問を変えて、これまでもそんな質問を受けていないかと聞けば、そんな質問を受けたことはあるという。その時は、別の場所でフリガナを書いて、コピーを取って貼り付ければできると話した。それでは作業が大変だが、というと、そのお客様はその後パソコンを立ち上げたら直っていたと聞いたという。やってみるしかないかと、電話を切った。 早速、作業中のワード画面の空いたところへフリガナを書いて、コピーアンドペーストで入力し たが、フリガナを振るたびにこの作業は大変だと思った。 作業を続けようと、フリガナを書いてみると、何と仮名変換が出来るではないか。何度か試したが、今まで通りに使える。まるで。コピーアンドペーストでひらかなをコピーしたことで、パソコンのこの機能が途端に目覚めたように感じた。 先ほどは少しきつく言ったかと思ったので、再度電話して、一度 コピーアンドペーストしたら変換機能が目覚めたみたいで、支障なく使えるようになったと、経緯を説明して、礼を言って電話を切った。今後、同じ問題が起きたら、その担当は処置として、一度 コピーアンドペーストを勧めることになるだろうと思う。 午後一番で散髪屋に行く。店主が歴史に興味を持っていると聞いていたので、解読版の「大地震の記」を進呈した。散髪をしながら店主の話に、ネットでつながる仲間から、近江と遠江は京都に近い方が近江、遠い方が遠江というと聞いた。今まで江戸に近い方を遠江、遠い方を近江と、どうして反対なんだろうと不思議に思っていた。そう、「江」は江戸のことだと思っていたから、真逆だったと...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(7)

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原、松陰寺山門 (現在) ネットより写真拝借 2026.2.27 午前中、Nさん事務所へ行き長話。忙しいところ長居して申し訳ありませんでした。 「大井河源記」(解読版)でプリンターを酷使したせいか、プリンターの調子がおかしい。何枚もプリントしたあと、途中で止まって、後のプリントを受け付けない。電源を入れ直すと、また初めからプリントが始まる。結果、倍近くのプリントが出来てしまう。たくさんプリントしたいため、余分にはならないからOKではあるが、何とも理解し難い。 東海道ウォーク、二日目ももう少しである。 ******************************************************************************************** スタンプを貰うために一時間ほど余分に掛かってしまった。やっと旧東海道に戻って、歩き始めてすぐに、『千本山乗雲寺』に寄る。潮の害に難儀している農民を救うため、砂浜に松を一本ずつ植えて千本松原を造ったと言われる増誉上人が開山したお寺である。境内は日本庭園で埋め尽くされており、立派な新しい鐘撞堂が建立されていた。釣鐘も新しく鋳造されたばかりのものであった。このあと街道筋で見た多くの寺院で、門といい、本堂といい大変立派な新しい建物が目立った。これはバブルで得たお金の寄進で出来たものかもしれない。何年か立って、このバブルの時代に出来た多くのものが、後世の人の語り草になるのであろうか。境内の隅に若山牧水の墓があり、墓を囲む石柱に次の短歌が刻まれていた。 聞きゐつつ たのしもあるか 松風の 今は夢とも うつつともきこゆ                    牧水 『従是東沼津領』の石柱杭は八幡宮の前にあった。この八幡宮の由来については看板に細かい字でびっしり記されていたが、大昔から説き起こした長文に読む気持を無くした。この石柱杭は下部の『沼津領』の部分が失われていた。字体から西のものと一対をなすものであることは明らかであった。側に『沼津藩領境』の共通サインがあった。 沼津宿  0.9km   → 【沼津市 沼津藩領境】  →  原宿  3km 『大諏訪の一里塚』を探しながら歩く。ところが見つけない内に次の目標の『神明塚古墳』の標識が出てきた。細道を少し入ると住宅地の中の小さ...

あさしおペア宿泊券

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息子がくじに当てた、ペア宿泊券 2026.2.26 もう一ヶ月以上前のこと、息子が浜名湖サイクリングに参加したところ、抽選に当たって、「あさしおペア宿泊券」というのをいただいた。我々夫婦にその宿泊券を使えばと言って寄越した。もちろん有難く頂いた。昔から、くじ運が悪いと自負する自分には、くじに当たることなど思いも寄らないことである。それを息子は軽々と当ててくる。 この一と月ほど、バタバタと忙しくて、予約をする気にはなれずにいたが、漸く一息ついて、今日予約を来月2日に入れた。まあ、旨いものを食べて来ようと思う。 午後、区内のSTさんに「歳代記」「大地震の記」「大井河源記」のそれぞれ解読版をもって伺った。いつもこのブログを愛読されて、色々と御意見を頂ける、貴重な方である。きっと読んで貰えるだろうとの思いで進呈した。また福用のSさんにも渡していただくように頼んだ。 「かさぶた日録」から、「かさぶた残日録」になって、古文書の解読を載せるのは、もうやめようと思った。必死に載せても、ブログのシステム側に都合で簡単に打ち切られてしまう。他所へ引っ越せばよいのだが、7000日分のブログを引っ提げて他所へ移るのもかったるい。自分的にはコピーを取ったが、公開は「残日録」だけにした。これでも、毎日書くのだから、付き合って下さる方は大変だと思う。 古文書の解読を載せるのは止めるといっても、古文書解読は止めるわけではない。今まで読んだ古文書も、まとまったものだけでも100冊以上ある。道楽だからこれからも読んでいくことになると思う。 それで考えたのが、解読文の冊子化である。自分のプリンターで刷り、製本して読んでくれそうな方へ進呈することにした。まずは自分の講座の受講者の方には進呈するつもりである。 STさんのお店(理髪店)に2時間近く居て話し込んだ。STさんは地元について、情報をたくさん持っておられるに、改めて驚かされた。また、客の合間に話に行こう。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(6)

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対面石にて 2026.2.25 午後、パソコンが壊れて、中止にした、まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」講座の埋め合わせの講座を、榛原文化センターで実施した。今日は、仕事で講座へ出席できなくなったという一人を除いて、全員出席であった。この10人が 四月からの新年度にも継続参加してくれるであろうか。今日の講座で、手作りで出来たばかりの「大井河源記(解読版)」を受講 者全員に進呈した。 受講者のMさんは3月1日から四国歩き遍路に逆打ちで出かけるという。同行の士がここにもいた。帰ってからの話が楽しみである。Nさんから田沼の相良城破却の記録の文書を預かる。コピーを取らせていただき、次回返却する。 東海道ウォークは続く。 ********************************************************************************** 広い道を突っ切った所に「八幡神社」と「対面石」の看板が出ていた。探しながら歩いて、通り過ぎたかと心配になった頃、道路工事中の所に八幡神社の入口があった。工事で掘った穴を跳び越したところ、あっ!と警備員が声を上げた。穴に落ちて怪我でもされたら、警備員の落ち度になるのだろう。悪いことをしたと思う。後へ続いた三人は工事の穴を避けて廻った。 200メートルほどの参道を通り、檜林の奥に八幡神社はあった。拝殿には10数人上がって祈願祭でもあるらしく、祝詞や鳴り物が聞こえる。本殿は上屋が出来ていて見えないが、随分古そうである。本殿の左手奥に対面石という、腰掛けるにちょうど良い一対の石があった。 その昔、源頼朝が弟の義経と対面した時に、両者が座った石だという。そこで鈴さんと和さん、臼さんと自分の組み合わせで、その石に座って写真を撮った。対面の時に、食べようとした柿が渋柿だったため、ねじり捨てたところ芽を出したという柿の木が側に植わっていた。この対面石は元々先ほど横切った広い道の側にあったというから、柿の木も伝説に基づいて最近植えられたものである。 皆んなでトイレを借りた後、社務所で神主の奥さんから御朱印をもらう。昔はこの辺りの広い一角が神社の敷地だったが、年々売ってしまい今の広さになったのだと語る。しかし自分たちの代には一坪の土地も減らしていないと胸を張るように話した。 黄瀬川の手前に松並木が残っていて「松並木」...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(5)

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「三島女郎衆の碑」   富士の白雪朝日で溶けて 三島女郎衆の化粧水 2026.2.24 夜、金谷宿大学の教授会で、金谷公民館に行く。いつも隣の席になる金谷宿の歴史の講座のOさんに、出来たばかりの 大井河源記(解読版)を進呈しようと、準備をしていたが、Oさんは欠席で、いつも代表で教授委嘱状をもらう役が自分のところへ廻ってきた。 来年度は二人、初心者クラスに受講の応募があったようだ。辞める方も出るのでもう二人ほど希望者がでればよいのだが。 隣に短歌のS教授がいたので、短歌と狂歌の違いを聞く。面白おかしく読むのが狂歌だと聞く。Oさんの代わりにS教授に、 大井河源記(解読版)を進呈した。S教授は「竹下村誌稿」の解読のことも承知しておられた。光栄である。 東海道ウォークは初回から11日目に、二回目を実施した。一行はやる気である。 ************************************* 歩く励みはサイン・スタンプ・一里塚    三島宿 → 沼津宿 → 原宿    日時 平成7年1月16日(月) 晴れ 昨日は娘の成人式で、カメラマンやら運転手で大忙しであった。明けて今朝、第二回目の東海道ウォーキングへ出掛ける。前回は静岡と沼津で列車の切離しがあり、その度に後ろの車両に乗り換えたりしたが、今回は一電車早くしたため一時間半で三島に着いた。話に花を咲かせていると時間の立つのが早い。 駅からすぐの、アスファルト道路に囲まれた三角地帯に岩山が頭を出して、数本のケヤキの大木が岩を掴んでいた。そこは小さな公園になっていて「愛染の滝」と名付けられた小さな滝が岩の上方から流れていた。「飲料水」と標識の立った竹樋から細く出ている水を飲んでみた。少し生温かった。三島には楽寿園を始め、いたる所から富士山の湧き水が出ているとは聞いていたが、こんな街中からも出ているとは驚きであった。近くの三島市民文化会館前のからくり時計が、ちょうど九時を知らせた。楽器を持った小さな三体の人形が、円筒型の時計塔の上部から現れて、音楽を奏でながらぐるぐる回る。 楽寿園の近くに「三島女郎衆の碑」があると本で読んで、向かい側の公園に入って探した。ここにも湧き水の流れとケヤキが目立つ。公園の南東の角に「白滝観音堂」があり、傍らに目的の「三島女郎衆の碑」があった。高さ3メートルほどの板碑に、...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(4)

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「こわめし坂」下より 30年前も富士山は変わらない 2026.2.23 天皇誕生日の今日は、富士山(223)の日でもある。30年前の一行も街道歩きのあちこちで富士山に出会っている。一行はようやく三島大社に着いたようだ。 ************************************* 車道から旧街道へ、標示は無かったが、それらしい様子と地図で確かめて、旧街道に入る。所々に石畳が頭を出していて、確認出来た。下り切った所にこれより「臼転ばし坂」と標示があった。箱根旧街道には数多くの命名された「坂」あった。昔の旅人は名前の付いた坂を一つ又一つと乗り越えて、励みにしながら登って行ったのであろう。我らは反対にそれらの坂を楽々と下ってきた。 箱根街道の入口の角に「箱根路」と彫り込んだ大きな石碑があった。これは往路のバスの中からも見えた。バス道の両側に一段高く松並木が始まった。ここは「初音ヶ原の松並木」で西側には松林の更に西側に石畳が復元されて、この石畳と松並木は、静岡県街並50選に「石畳の道」として選ばれている。松並木を100メートルほど歩いた所に「錦田の一里塚」があった。バス道の向こう側とこちらに、対で塚が残っている。塚の上には榎が植えられている。街道筋で最も典型的な一里塚として現存するものの一つだという。一里塚の側には箱根八里記念碑「錦田一里塚」の文学碑があった。 日々うらら 松の道場の 一里塚     ( 作者名読めず ) 作者は書かれていたが、どうしても読めなかった。 松並木の終わりに、小さな「雲助備前繁の墓」が置かれていた。そしてすぐ隣に(と記憶しているが)「箱根大根の碑」が建立されていた。見た時はそれと判らなかったが、後日、本でそれと知った。 箱根八里の馬子吹き消えて / 今は大根を造る歌    源水 明治になって鉄道が通り、 街道が廃れて、旅人の世話を業としていた人達が大根作りを始めた。この街道の切干大根は有名であった。和さんも昔、会社の先代会長に頼まれて、この辺りにニンジンを買いに来たという。この辺りはニンジンも旨いと評判だったのだ。 これより町中の裏道を「愛宕坂」「今井坂」と下って三島大社へと続く通りに出た。四人とも、箱根から何も食べていない空腹と、長く続いた下り坂に重くなった足を、ゴール間近と励ましながら歩いた。 静岡県一の初詣客で賑わう三...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(3)

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大井河源記(解読版) 2026.2.22 今日、大井河源記(前編・後編)解読版が仕上がった。少しづつプリントして、関係の皆さんに配ろうと思う。これで、歳代記(二分冊)、大地震の記、に続いて、三本目となる。 ***************************************** 東海道ウォーク一日目、一行はまだ箱根から三島宿への途中だ。 車道を少し歩いた所に、「菊池千本槍の碑」があった。御醍醐天皇の頃、菊池氏が竹竿に短刀を括り着けて槍を作り戦いに望んだ。それまで槍という武具は無かったというが、本当なのだろうか。 再び旧街道を下り車道に出た所に、大きな芭蕉の句碑があった。 霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き    芭蕉 芭蕉翁、富士山が見えず負け惜しみの一句である。今日は句碑の背後に富士山が見えた。再び箱根竹の旧街道に入った所に、鎖に囲まれた石柱の「明治天皇休息碑』があった。恐れ多くも、その傍らで和さんは小用を足した。他の三人は少し離れた街道脇で連れションに及んだ。それより「上長坂」と呼ばれる長い下りの石畳の旧街道を下った。 旧街道が集落と車道に出合う手前の人家の前に、「笹原一里塚」があった。道路より少し高い所に丸い塚がしっかり残っていた。塚の上の樹木は榎であろうか。傍らに箱根八里記念碑「笹原一里塚」の文学碑があった。 森の谺を背に此の径をゆく 次なる道に出会うため      大岡信 車道を突っ切って人家の間の舗装道路を行く。この辺りを「こわめし坂」というようだ。道路工事中で、削岩機がコンクリートを割るすぐ側を通る。こわめし坂から車道に出たあたりで見る富士山は、左手の愛鷹山系と並んで面白く、皆んなカメラを取り出しシャッターを切った。「松雲寺」は寺本陣と呼ばれ、かつては人を泊めた。ここにも明治天皇の足跡が碑として残っていた。 すでに午後二時を回り、箱根の山かけ蕎麦もすっかり消化された。このあと空腹を抱えて、食事処を探しながら歩くことになった。あの山かけ蕎麦がなかったら、もっと辛いものになっていただろう。 車道から外れ、学校のそばを行く。学校のある辺り、昔は法善寺という寺があり栄えていた。寺の中に「七面堂」というお堂もあった。今はただ石碑が残っているだけである。それより下る急坂の歩道を「題目坂」といい、登ってくる旅人は法善寺を目指して、お題目を唱えながら登って来た...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(2)

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  令和7年版 面白古文書12月 2026.2.21    本日は金谷宿大学「古文書に親しむ」2講座を実施した。受講者で身体を壊す人がちらほらある。年齢が仕事を終えたあたりの人が多いから、やむをえないとはいうものの、ぜひお身体には留意していただき、長くお付き合い願いたい。 受講者の皆さんに、「面白古文書12月」の令和7年版を配った。これで5冊目(5年目)となる。毎月の講座の冒頭に、短い様々な古文書を読んできて、その総数が60になる。どこまで続けられるかわからないが、今後も続けようと思う。 *********************************************************************************************** 東海道ウォーク一日目、一行は箱根から三島宿へ下っている。 茨ヶ平の、東方の山並を見晴らせる位置に、箱根八里記念碑「茨ヶ平」が建てられ、次の文字が刻まれていた。      北斗闌干    井上靖 (「闌干」は月や星が光輝くさまを示す) 「箱根八里」を後世まで残すために、道中八ヶ所に著名な文学者に依頼して建てられた文学碑の一つである。神奈川県側に四ヶ所、静岡県側に四ヶ所設置されているという。 火山灰地の上に箱根竹が繁茂して道を狭めている旧街道を下ると、一度車道へ出てまた旧街道に入り、すぐに車道に出る。車道に出る手前に「接待茶屋跡」があった。柵で囲われた接待茶屋跡には一面の碑と二人の胸像があった。その胸像に「鈴木利喜三郎」という名を見つけた。鈴さんとは一字違いの名前である。さらに車道を渡った箱根旧街道の入口には、灌木に囲まれて「接待茶屋」の共通サインがあった。近くに「山中新田の一里塚」があったはずだが、気が付かずに通り過ぎてしまった。 頼朝が兜を置いたとも、秀吉が兜を置いたとも言われている「甲石」は、大きなおむすび型の石が旧街道脇にある。もう少し上にあったものを、道路改修時にじゃまになってここへ移したものだという。街道筋の大石が多くの人に見られる内に、様々な伝説が出来ていく様子が知れて面白い。甲石から少し下った所に「明治天皇御小休跡碑」の石柱があった。 これも道中には珍しい巨石「念仏岩」があり、下部に窪みがあって伝説を生みそうな岩であった。旧街道は所々に石畳を残しながら「...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(1)

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  出発地点 箱根関所 2026.2.20    遠江三十三観音を終えて、次は東海道を歩こうとの約束通り、一ヶ月後、まだ松が明けないうちに、 東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)を 計画した。今から30年前の記録である。一緒に歩いた仲間たち(いずれも職場の先輩)は皆んなあちらの世界に旅立ってしまった。今やこの記録だけが、当時の仲間たちの息遣いが知れるものになってしまった。 それでは始めよう。 ********************************************************************************************* 東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿) 西暦2001年には東海道に宿駅制度が出来てから400 年を迎える。最近、東海道五十三次が見直され、街道筋に諸施設が整備され、各種イベントが催されて歩く人も多いという。特に静岡県内では、共通サイン(東海道の道標)が設置され、宿場ごとにスタンプが置かれていて、歩く励みになる。我らも東海道五十三次を歩こうと計画する。しかし、いきなり日本橋からでは辛いから、手始めにまず静岡県を歩こうと思う。静岡県には何といっても五十三次の内二十二宿がある。すでに図書館で旧東海道の道筋を調べ、国土地理院発行の二万五千分の一地図に落としてある。さて、いかなる弥次喜多道中となりますやら。 松の内、箱根旧街道石畳をひた下る     箱根関所 → 三島宿 日時 平成7年1月5日(木) 箱根、曇り、のち晴れ風寒し スタートは県境(箱根峠)にしようとも思ったが、いずれ後日、日本橋から歩く際のゴールが箱根峠では交通の便が悪いと考えて、箱根関所とした。出発は一月の松の内とする。一昨夜、和さんから、明日は雨の予報だから明後日に延期したいと電話があった。雨の出発では辛い気持は同じである。一も二も無く賛成する。案の定、昨日は今の季節には珍しく大雨であった。明けて今朝、低気圧が東へ抜けて季節風が吹き出し、暖かな正月の天気から、一転して、晴天ながら寒い一日になりそうであった。まだ正月気分の抜けない三島駅から箱根登山バスに乗る。切符売り場のおばさんは、関所までと言うと、歩くなら終点の元箱根まで行けば、箱根杉並木も見られるから、と勧めた。しかし、スタートは関所からの方...

【活動の記録】と【読了図書】1月10日~2月14日

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庭の紅葉、これは何? シダ類の紅葉? ミズゴケという説は本当か?   2026.2.1 9 久しぶりに「活動の記録」と「読了図書」を記そう。読書は年明けがくんと減った。   *******************************************************     【活動の記録】 1月10日        午後、 「 駿遠の考古学と歴史」講座受講。 1月14日        午後、 まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」 講座講師。 1月17日   午前、 金谷宿大学「古文書に親しむ(初心者)」講座教授。           午後、金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」講座教授。 1月21日   午後、金谷郷土史研究会、「歳代記」をテーマに話す。 1月23日   午後、駿河古文書会に出席。 1月25日   午後、みんくる歴史講演会、北原勤氏。  2月6日        午後、駿河古文書会に出席。        夕方、まきのはら塾発表会準備。  2月7日   一日、 まきのはら塾発表会。        午後、まきのはら塾、ミニ講座。  2月8日   一日、 まきのはら塾発表会、および片付け。  2月9日   パソコン壊れ、更新の依頼す。 2月11日   まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」 講座、        資料準備できず、25日に再度実施。 2月12日   午後、掛川古文書講座受講。   2月13日   午後、 駿河古文書会に出席。 2月14日   午後、 「 駿遠の考古学と歴史」講座受講。        パソコン、更新完了。   【読了図書】 読書:「 本所おけら長屋(十四) 」  畠山健二  著 読書:「大川三つ巴 小料理のどか屋人情帖45」 倉阪鬼一郎 著 読書:「本所おけら長屋(十五)」 畠山健二 著 読書:「 本所おけら長屋(十六) 」  畠山健二  著 読書:「おまあ推理帖」 諸田玲子 著 読書:「下町やぶさか診療所 モナリザの微笑み」 池永陽 著 読書:「 本所おけら長屋(十七) 」...

金谷郷土史研で「大地震能記」を提供、紹介

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山崎久麻呂の記した安政大地震の記録 「大地震能記」の解読版 2026.2. 18 午後、金谷郷土史研究会に出席した。10名近い出席があった。 前回の金谷郷土史研究会では、自分が解読したものを提供して紹介した「歳代記」で、話題になった、『中山新道がどのあたりにあったのか』が大きな疑問として残った。その点について、N氏が調べていただいて、その発表を聞いた。結論的には、金谷坂の登りと、佐夜鹿の道銭場(有料道路、中山新道の料金所)あたりと、その後に出来たトンネルの、上にあった峠の部分だけが昔の姿を残すだけで、他は日坂まで旧国道一号線となって、拡幅改良されて、形を変えてしまったという。 写真を見ると、 中山新道の内、 トンネルの上の峠道は、倒木や落ちた枝などに覆われて、通ることもままならない状態になっているようだ。ただ、写真には既視感があった。その峠には登ったことがあると思った。20年から30年くらい前のことだと思うが、峠は歩いて越えられたように思った。ただ、誰とどういうきっかけで訪れたのか、すっかり忘れているので、その場では行ったことがあるとは、発言出来なかった。 そのあと、掛川の山崎久麻呂氏が書いた、「大地震の記」の解読版を提供して紹介した。前回の 「歳代記」に続く、教科書では決して教えない郷土の歴史である。その大地震は「安政大地震」のことである。その揺れがどれほどであったか、庭に逃げ出すのに何度も転んだとか、九つの孫は地震の揺れを面白がって、同年配の友達と庭ではしゃいでいたとか、外出していた息子が急いで家に戻る途中、田んぼに転げ落ちないように道に張り付いて耐えていたが、田の水がバシャバシャと掛かってなど、体験記が続く。(地震を面白がった、孫の「富丸」は十数年後、江戸に向かう官軍を案内した、遠州国学の徒の一員に入っている。) 皆さんにもぜひ読んで貰いたい体験記で、昔の言葉で少し難しいが、解読して十分読めるように工夫がしてある。安政大地震は体験記がいくつも残っているから、別の人の者も紹介したいと思う。そういえば、前回紹介した 「歳代記」にも安政地震の記述があった。

印刷がエラーになって

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桑原黙斎の絵 「知者嶺」 奥に後黒法師山・前黒法師山が見える 2026.2.17 ようやく写真を取り込めるようになった。その最初が桑原黙斎の絵である。今、桑原黙斎の「大井河源記」の解読版を仕上げている。そこへ挿絵として本人の描いた絵を入れようとしていて、ようやく出来るようになった。遣り方を覚えればそんなに難しくなくて、これまでよりも画像の加工が簡単になった。 その前に、印刷がおかしくなって、プリンター側にトラブルは解消されているのに、パソコン側では印刷エラーが出てしまい、印刷ができないトラブルであった。多分これだと気づくまでに一日かかった。つまり間に入ったルーターがエラーを出していると。ルーターの再起動を、共用している息子に断って、今夜再起動をしてみたら、印刷できるようになった。 勝手が全く違うので、一つ一つクリアしなければならない問題がまだまだある。ただこれで当面は使えそうになった。 ところで、 「大井河源記」は駿河記を手掛けていた 桑原黙斎さんが、大井川の東側(駿河)の村々へ取材の旅をした記録で、文化九年(1812)の古文書である。原本は失われて、写本がいくつか残っている。解読された方も何人かおられ、印刷物も残っているが、写し間違いや、解読の相違などもあって、何が正しいのか判断に困る部分もあるが、文章にしてみて、最も納得できるものを採用して、解読を仕上げた。前編、後編の 二分冊として、前半が何とか完成して、後は表紙をつけるだけである。挿絵として黙斎さんの絵を利用させてもらった。 前半では、大蛇の話、山丈(やまおとこ)の話、白浪(どろぼう)の話など、挿話もいくつかあって、興味深い。希望の人にはお分けしたいと思うが、もう少し時間が掛かる。

高市自民党が大勝した日、パソコンが壊れた

2026.2.16 高 市自民党が大勝した日、パソコンが壊れた。総選挙の感想でも書こうかと思ってパソコンを立ち上げようとしたところ、立ち上がらない。息子に話しても、マザーボードが壊れたのだろうというだけ。十何年か毎日使用したのから、よく持った方であろう。次の日にパソコンショップに行く。ソフトが古すぎるから、データーはどうなるか判らないなどと、おどされた。現金なもので、新しく購入するというと、データーの移行もやってみると、請け合ってくれた。 今はパソコンも今値上がりしていて、20万円の出費であった。更新作業に一週間かかるといわれ、何とか早くお願いしたいと頼んで、四日目に出来上がってきた。何とか設置して使おうとしているが、今までと勝手が違って、なんとも使い辛い。慣れるまでにはしばらくかかりそうだ。 この四日間、自分が何とパソコンに依存して暮らしていたかを思い知らされた。パソコンがなければ何も始まらないのだ。水曜日はまきのはら塾の古文書講座だったが、資料ができずに四方山話で済ませ、その分2週間後に講座を行う事にした。木曜日は掛川の古文書講座受講、金曜日は静岡の 古文書講座受講、いずれも予習は出来ずに受けて、復習もできなかった。 幸い、冬季オリンピックを日永テレビ観戦をして過ごした。日本はメダルラッシュで、間もなく今までの冬季大会での記録を破りそうだという。 そうそう、高市自民党だが、高市人気と敵失で、誰も想像していなかった大勝となった。勝つとは予測はしていたものの、ここまでとは思わなかった。面白いもので、高市人気は、高市総理を一言でも批判すると、批判した党の票を減らすのである。これだけの国民の期待を受けて、高市総理も大変である。 写真の撮り込み方がわからない。ただいま研究中。 

パソコンが壊れて

  パソコンが壊れて入れ替え、復旧に今日までかかった。勝手が違ってまだまだ戸惑っている。今までの調子が戻るには、少し時間が掛かりそうである。

まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」、ミニ講座を実施

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まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」講座 発表会展示   2026.2.7  今日、明日は、まきのはら塾発表会で、会場の相良総合センターのい~らに詰めることになる。10時過ぎに会場に行き、「古文書解読を楽しむ」講座の展示コーナーに詰めた。 会場は段々見学者が増えてきたが、なかなか古文書コーナーに足を止めてくれる人が少ない。興味を持ってくれる人がいれば、体験教室のことを案内して受講してもらおうと待ち構えるも、難しい。お昼までに一組の夫婦のみ体験講座を受けてくれることになった。 体験教室案内展示 午後1時から一時間、体験講座を実施した。聞いてくれたのは、講座の現受講者が賑やかしに三名参加してくれた外は、その夫婦二人だけで、五人の受講者に一時間、古文書解読の話をして、喜三太の記録「はしがき」を読んだ。  何とか夫婦連れの女性の方が興味を持ってくれて、受講の申し込みをしてくれそうであった。それでも、10人や20人受講者あるだろうと、資料は30部用意したが、期待外れであった。 一つには、一時間と限ってのミニ講座のやり方が、塾側にも理解がなくて、体験教室にくれば、講座で何をするのかを、随時説明してくれるという方式としか、塾側でも理解していなかったようだ。従って、ミニ講座の放送案内もされずに、宣伝が行き届かなったと反省している。ミニ講座を終えて出て来たところ、聞いてみたいと思っていた方だろう、「古文書講座があったようで、終わったみたい」との声も聞こえて来た。  来年、もしやるならば、塾側ともよく話して、ミニ講座と体験教室の違いを理解してもらい、案内放送をしてもらうなど、人集めの方法を考えなければなるまい。 ともあれ、今は一仕事終えてほっとしている。 

静岡市から牧之原市へ多忙な一日

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    相良総合センター い~ら 2026.2.6   昼食に、少し早めに自作のトマトスパゲティを作って食べ、静岡へ向かう、今日は駿河古文書会の日で、二時から四時までは、静岡城北公園内の静岡市立中央図書館の会議室で、講座を受講する。 今日の課題は幕末の島津久光の奉書など、牧之原市の方が書き写したもので、コピーの状態が良くない上に、細かい文字でいつもより沢山ある。講師も大変苦労されたようであったが、講座のテキストにはふさわしいものとは思えなかった。少なくともしっかり読めば意味が理解できるものでなければ、勉強する甲斐がないよう思える。色々と意見を出したくても、答えが出ないようなものでは、意見の出し様がない。つまりは、こういう講座のテキストには相応しくない課題に思えた。 自分なら決してテキストには選ばない古文書である。もっとふさわしい古文書を探す努力が必要かと思うがどうだろう。静岡から少し離れれば、例えば、焼津、藤枝、島田などには、まだまだ読まれていない古文書はたくさんあると思う。講座のテキスト集めの作業が必要なのではなかろうか。 そんなわけで、4時には10~15分残して終わる古文書会が、終わって時計を見たら、4時10分を過ぎていた。大変だ、牧之原市の相良総合センター「い~ら」には人を待たせている。 慌てて、車を出し、東名を静岡から牧之原へ走り、牧之原から相良のい~らまで、とばしたがけれども、ほぼ一時間かかってしまった。約束は4時半から5時の間が、5時10分を過ぎてしまった。 まきのはら塾の発表会が明日、明後日にあるため、「古文書解読を楽しむ」講座の展示を手伝ってもらうべく、二人の受講者に声をかけていた。長く待たせてしまったが、帰らずに待っていて頂いた。展示はお蔭で30分ほどで終わった。ありがとうございました。 家に着いたのは午後6時をかなり回っていた。久しぶりにこんなにバタバタとした。歳を取るとこれだけのことでも、身体に応える。だが、まだまだ、 明日は展示と一時間の体験講座が待っている。

自分古文書(16)遠江三十三観音巡礼(23)最終回

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佐束山岩井寺 2026.2.5     この土日と、まきのはら塾発表会で、展示と体験講座の準備に今日まで掛かった。明日は駿河古文書会で、終わり次第、東名で牧之原へ走り、展示をして土曜日に備える。忙しくなるので、今日午後、衆院選の期日前投票を終えて来た。 *******************************************************************  遠江三十三観音巡礼は今日で終わりだが、このメンバーで、今度は東海道を歩くことになる。   【歩程】第三十三番‐岩井寺へ、北へ4.5キロ バス道には出ないで、田畑の中の道を迷って遠回りしながら歩く。掛川市との町境にトンネルがあった。トンネルを抜けると、春の立山バス登山道の雪壁のように、道路の両脇が激しく迫り聳えた、カーブした道に出た。壁は落石防止のためコンクリートが吹きつけてあって自然の谷ではないのだが、異様な光景に皆で記念写真を撮る。 岩井寺は里から少し登った山の上にあった。山門が赤く塗られた装飾的な建物で、江戸時代のものに思えた。後で聞くに創建後300年経つという。 第三十三番 真言宗 佐束山 (さづかざん) 岩井寺 ( がんしょうじ)       山高き 峰のいおりに すむ人は 雲にはつせの 風をまつらん 【本尊】如意輪観世音菩薩 【所在地】掛川市上内田岩井寺 案内を請うと、出てきた老婆がご朱印を押してくれる。美味しいお茶を勧めながら、「住職が亡くなったばかりで、今日で二 タ 七日・・・・」と話し始めた。90歳でさすがに外へは出ることはなくなっていたが、お寺では直前まで元気にお勤めをしていた。この十四日には檀家葬が予定されている。息子は勤めがあって掛川に住んでいるが、来年三月に定年で戻ってきてくれる。もう少し生きていてくれたら良かったのだが。今はひとりで・・・・、と話しながら涙を流す。寂しさに我々のような通りすがりの訪問者にさえ、そんな話をしてしまう。そんな気持ちが痛いほど分かった。 住職は小夜の中山の久遠寺の住職を兼ねていたが、最近はほとんど向こうのお寺には行かなかった。昔はバスを乗り継いで、トンネルの所から久遠寺まで歩いて登ったものだ。住職を兼ねてから長かったから、檀家葬には中山からも沢山来てくれると思う。...