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自分古文書(2)「赤い発光体」6

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” 赤い発光体 ” (ネットから部分拝借)   2025.7.31   昨日の津波警報は注意報となり、その解除は今日まで掛かった。昨夜は興が乗って、一冊朝まで掛かって読み終えてしまった。だから、今日は一日、朝寝、昼寝で過ぎた。 自分古文書「赤い発行体」の第6回を載せる。次回で終りとなる。  ***********************************   赤い発光体 6  いつか、彼女たちに別れの言葉を言ったことなどすっかり忘れて、側の草の上に腰を下ろしていた。彼女たちはよく笑い、よくしゃべった。話題は最初のうちは各々の趣味についてであったが、多賀子が読書が趣味だと聞いてから、いつか小説に話題が変わり、本を読んだときの感動などの話になった。八重は川端康成の『伊豆の踊子』を読んだ時、踊子の純情さに心を打たれたと言った。多賀子は谷崎潤一郎の『細雪』の、源氏物語を思わせる美しい流れるような文章が素晴らしかったと話した。いずれも公式通りの感想ではあったが、彼女たちの言葉に偽りはなかった。私も夏目漱石の『草枕』の非人情の精神に魅力を感じると語った。  ふとしたことから先生の悪口へ話が落ち、わが校の男子と××女子高校の女学生の怪しげな噂から、映画俳優の顔の善し悪しの話に落ちてしまった。初めの内はよくしゃべっていた私も、話が落ちてくるにつれて黙りがちになり、ついに会話がぷっつりと途絶えてしまった。沈黙の後、気不味い空気を破るように多賀子が切り出した。  「もうそろそろ下らなくっちゃ。井川さん!私、まだあんまり足が大丈夫じゃないんです。下まで一緒に降りてくれませんか」  私は喜んで一緒に降りることを承知した。  「降りるなら、頂上まで登って向こう側から下った方が良い。道もいいし距離も短いから」と私は櫓の方を指差して言った。  案内すべく先頭に立って登る。多賀子も少し痛そうにしていたが、十分歩けそうであった。櫓の下で多賀子のためにしばらく休憩した。空はいつの間にか雲が無くなって、底が抜けているように深い。登ってきた方とは反対の、先程逃げ出そうと思った時使うつもりであった道が、そこだけ灌木の切れ目が出来て、ぽっかりと穴が開いているように見える。  「さっ、それじゃあ降りようか」  私は彼女たちが水筒からお茶を飲み終わるの待って言っ...

津波警報と後輩証券マンと国内最高気温とクジラ四頭

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     延々と津波警報報道は続く 2025.7.30 今朝、津波注意報のアラームで目が覚めた。午前8時25分頃、カムチャッカ半島近くで、マグニチュード8.0の大地震が起きて、日本列島に最大1メートルの津波が押し寄せるという。2時間から3時間後だそうだ。我が家は海から数十キロ内陸に入り、標高80メートルあるから、津波の心配は全くない。大井川には遠くないが、津波が遡ってくる恐れもない。 テレビはどのチャンネルも津波注意報の報道だった。テレビ報道を見ているうちに、マグニチュードが8.7に変更され、津波警報にレベルが上げられた。最大3メートルの津波が予想されるという。これが本当なら大変な事態になりそうだ。 話は変わって、昨日電話があって、証券会社の若い社員が11時に来るというので応接に冷房を入れた。彼は大学の後輩(と言っても50年以上歳を隔てた孫のような若者である)である。自分の四年の時は、70年安保の前、学生運動盛りのころで、最後の半年は講義が受けられなかったという思い出話をした。ところが、彼も学生時代は、コロナの時代で、講義はパソコンによる遠隔授業となり、残念だったという。そうか、この50数年を隔てて、理由は違うが、まともに講義を聞けなかったという共通項があったのかと、不思議な思いであった。 後輩の親近感から、もうこの歳で、ネット証券など顔の見えないところへお金を預けるのはやめようと思っている。出来るだけ顔の見える彼のようなところへ預けようと思うなどと話した。 午後は昼寝の後、まだ、津波警報でテレビは騒いでいた。NHKなど、ずーっと津波警報の報道であったようだ。そこへ、画面に赤枠で「41.2度、兵庫県丹波市」の文字が出た。日本における、今までの最高気温だという。どさくさ紛れの大変な事態だと思う。当地では高くても35、6度位だから、 41.2度とは どのような体感だろうと思う。 いよいよ自然の逆襲がはじまったのであろうか。テキサスの大洪水、北京の大洪水、今回のロシアカムチャッカの大地震と大津波、立て続きに起きる自然災害を、それぞれの指導者はどう考えるのだろうか。 長くテレビをみていて、館山海岸に打ちあがった四頭のクジラ、津波の取材ヘリコプターが見つけたというが、その後の報道を見ない。これはいったい何だったのだろう。

【活動の記録】と【読了図書】7月13日~7月28日

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  庭の石の離れ家   義父に頂いたもので 木立の下、雑草に埋もれそうで 涼し気と言いたいが やはり暑いだろうなぁ  2025.7.2 9   この半月ほどは、外出機会も少なく、あまりの暑さに、冷房の部屋にこもりがち であった。     この 熱波の世界に、 トランプ、プーチン、習近平、ネタニヤフ、金正恩と、金銭欲、権力欲の塊のような、人の命を取ることを何とも思わない 指導者が、世界を牛耳っている。21世紀は希望の世紀と思っていたが、四半世紀を過ぎて、これでは、戦争の世紀といわれた20世紀の方が、余程増しだと思えてならない。   世界の指導者たちには、戦争に明け暮れている暇はないはずで、異常気象が日常化している自然との闘いこそ、直近の課題だと思われるのだが、このままでは近々自然界から大きなしっぺ返しを受ける気がしてならない。    この十日余りの活動と読書を記しておく。  【活動の記録】 7月17日    午後、 金谷郷土史研究会、会合。 7月18日     午後、駿河古文書会に出席。   7月19日    午前、金谷宿大学「古文書に親しむ(初心者)」講座教授。            午後、金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」講座教授。 7月20日    午前、参議院議員選挙の投票に行く。 7月21日    午前中、掛川孫三人来たる。 7月23日   午前中、斎藤医院定期健診(夫婦で)。 7月25日    午後、岡部氏と掛川図書館で待ち合わせ。図書館休館で会えず。  7月28日   午前中、磐田市歴史文書館にて、名倉氏、岡部氏と談ず。     【読了図書】 読書:「奇病 蘭方医・宇津木新吾」 小杉健治 著 読書:「南町奉行と鴉猫に梟姫 耳袋秘帖」 風野真知雄 著 読書:「 新宿花園裏交番 坂下巡査 」  香納諒一  著       読書:「 そうだ、山に行こう 」  沢野ひとし  著     ...

磐田市歴史文書館のN氏を訪ねる

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磐田市歴史文書館 (旧竜洋町役場)  2025.7.28   今朝9時前、磐田市歴史文書館に電話して、N氏と10時に文書館でお会いする約束をした。そして、続けて磐田のO氏に電話して、10時に文書館で落ち合うと連絡した。 昨日、磐田のO氏から電話があり、その折り、明日N氏の出勤日で、朝連絡してOKなら文書館に行くので、帰りにでも寄らせて頂くと話すと、文書館のN氏ならよく知っているから、文書館に出向き、そちらで会おうとの話になり、今朝の電話で、O氏も同席すると了解を得ていた。 1時間弱で旧竜洋町役場だった磐田市歴史文書館に到着した。ちょうど、ほぼ同時に到着したO氏と共に文書館に入った。 まず、今日の主目的の「竹下村誌稿(解読版)」を、N氏、O氏それぞれへ進呈した。そして、竹下村誌稿の紹介と、解読版作成に至った経緯を説明した。400頁を越す嵩張る本だから、用が無くなったら、文書館などに入れていただければありがたいと話す。 さらに、解読版出版に至った、金谷郷土史研究会についても説明した。会員が減って細々と活動していた郷土史研に、仲間と入会して活性化しようと思ったこと。その手始めが「竹下村誌稿(解読版)」の発行だったこと。次のテーマの「天正の瀬替え」についても、通説を否定する状況証拠はたくさんあるのだが、決定的な証拠が見つからないなどと、詳しく説明した。 60歳定年の頃から、後の人生をどう生きるのかと、考える中で、自分は伊能忠敬の後半生が参考になった。伊能忠敬は商家の婿養子になったが、50歳までは家業に没頭し、50歳で息子に家業を譲り隠居した。それからは、趣味の天文の世界に入り、地球の一周(4万キロ)を計算する手段として始めた、日本地図作りが後半生の仕事となった。17年掛かって完成させた日本地図は、大正時代まで日本地図の基本とされてきたという。彼の二度楽しむ人生が自分でも目標となった。 自分の後半生はブログの発信、最終お遍路になった結実したテーマウォーク、さらに、古文書解読へと進展して行った。76歳のN氏、73歳のO氏と比べて、79歳の自分が一番活動的だと感心された。 放っておけばいつまでも話が弾んだところだが、午後、用があるというO氏が止めてくれて、都合1時間半で、文書館をお暇した。

昔、昆虫少年だった(1)蝉のこと

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    何か昆虫を、と裏の畑に出てみたが なかなか絵になりそうな昆虫は見当たらない 唯一目立ったのがハグロトンボ 脇の小川で繁殖しているようだ カメラを向けるがじっとしていてくれない ようやく撮った一枚  2025.7.27   伊勢の長兄(90)が電話で、今朝、自宅の柿の木で、突然ジャージャーと2匹のセミが鳴き始めてびっくりした。羽根が透明のセミだったと話す。 それはきっとクマゼミだよ。ジャージャーではなくて、シャンシャンと騒がしいのが特徴である。昔はセミといえば羽根が茶色のアブラゼミだったが、その後温暖化が進行して、近頃はアブラゼミはめっきり減って、昔はめったにお目にかかれなかったクマゼミが全盛である。 蝉といえば、春はニイニイと、控えめな声のハルゼミから始まって、夏の到来と共に、ジージーと聞いただけで汗が噴き出して来るようなアブラゼミが、故郷の夏に満ち溢れていた。シャンシャンと鳴くクマゼミは珍しく、その真っ黒な透明の羽根を持った、日本では最大の大きさもあって、セミの王様のよう思っていた。 お盆にお袋の故郷の田舎にお墓参りに行くのが年中行事であったが、そこで山から響いて聞こえたのが、ミーンミーンと繰り返すミンミンゼミの声であった。その美声はいわば蝉の世界のオペラ歌手であろうか。夕方になると、カナカナとヒグラシが鳴く。その日の終わりを告げる晩鐘に似た役割を持っていた。そして、夏の終わりには、ツクツクホーシと繰り返すツクツクボウシが鳴き始め、もう夏も終わりだと告げているように聞こえた。 セミだけでも、これだけの種類を今でも聞き分け、見分けることが出来る。そう、60数年前の小学校の頃は、自分は昆虫少年だった。夏は虫網を持って昆虫を追いかけ山野を巡っていた。とってきた昆虫は、虫ピンで形を整えて標本にし、親父のワイシャツの空箱(内蓋に透明のセロファンが張られて、標本箱に最適だった)に虫ピンで刺して並べ、それが夏休みの自由研究だった。他にも何人か、同じような標本を出したものがいた。当時、昆虫は至る所で見られ、採集は容易であった。(続く、またいずれ)

「竹下村誌稿(解読版)」拾い読み 3 斎藤島の墓

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庭のデュランタ・タカラヅカ花盛り 花の少ない酷暑の夏 サルスベリと双璧である 2025.7.26   竹下村始まりについて、解読版をみていると、「斎藤島の墓」の文があった。解読版158頁の記事である。これもあらすじで記してみよう。 掛川誌稿の竹下村の条に、「斎藤左衛門三郎の墓」として、村の東の斎藤島という所にあって、松の木を植えてしるしとされている、とある。 斎藤氏は竹下村の芝切り(最初の入植者)の一人という。同じく、芝切りの一人、下島氏が開基に関わった常安寺に墓地を築くことを避けて、この斎藤島に墓地を築いた 。明治の半ばまでは、斎藤松と称する松と共に、墓地もあったが、大正の当時は 松も切られて、墓地は すでに田となっているという。 斎藤氏の出自は明らかではないが、大坂落城後来着せしものなりとの伝承もあれば、あるいは豊臣氏の遺臣なのかもしれないと記す。   斎藤島は今のどこにあったのか。 島というのは大井川が瀬替えまえ、今より西側を流れていた時分、川の瀬となっていた部分で、その瀬に名前が付けられ、瀬替え後もその字名などに名を残している。日限地蔵で有名な島地区は、まさにその大きな中洲のあった所と考えられている。 斎藤島の場所ははっきりしているのではないかと思われるが、竹下村誌稿には詳しくは示されていない。何方か詳しい人に教えを請いたい。 また、斎藤氏は豊臣氏の遺臣なのかどうか。疑問は残る。  竹下村の芝切りの一人、斎藤氏については、さらに色々の話が載っているが、詳しくは解読版をご覧いただきたい。 ---------------------------------------------------------------- A4判で423頁の本で、一冊2000円で販売して おり    ます。入手されたい方は、下記へご連絡ください。        金谷郷土史研究会事務局 (仲山設計内)      TEL  0547-46-2279      FAX  0547-46-4756                 Email  tommy3939@ny.tokai.or.jp ---------------------------...

自分古文書(2)「赤い発光体」5

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裏の柿の木のフウラン この酷暑にもめげず花を咲かせる  2025.7.25   朝、磐田のOさんと掛川図書館で、午後1時待ち合わせの約束をした。12時40分頃に着いたら、図書館が休館で駐車場にも入れなかった。そして、スマホを忘れたことに気付いた。今日はスマホを持たねばと思いながら、忘れてしまった。スマホを持つ習慣をつけていないと、必要な時にこういう事態になる。 駐車場入口の路上に車を止めて待った。途中、駐車場の出口も気になって、出口にも行ってみた。業者のトラックが一台止まっているだけで、Oさんの車は見当たらなかった。また駐車場入口に戻って、1時まで待ったが、諦めて家に帰った。 家にはOさんから電話が来ていた。何度か電話を貰っていたようで、電話を掛けて聞けば、業者の車と思って見過ごしたのがOさんの車だった。30分以上待ったという。まことに申し訳ないことをした。「スマホ不携帯」と「思い込み」、二重の失敗であった。待ち合わせはまた後日にしたが、Oさんは怒っているのだろうなぁ。 気を取り直して、自分古文書「赤い発行体」の第5回である。  ***********************************   赤い発光体 5  「だいぶ酷いね。そうだいいものがある」  ナップサックを混ぜ返して、底からマーキュロクローム液を出して、側に置きながら言った。  「これを塗ってあげて」  「用意がいいわね」  終始、心配そうに見ていた『ヤッチャン』が、覗き込んでいた視線を私の方へ移して、マーキュロクローム液を取りながら言った。  「僕はめったに怪我はしないんだが、いつも母が用心のためと言って入れて置いてくれるんだ」  私は 彼女たちに遠慮して、少し距離を置いた所で、崖の方を向いて坐った。もう用事はないのだが、マーキュロクローム液を貸しているからという口実で、崖下を眺めて待った。  崖の下には背の低い雑木林が広がっていた。雑木林は向こうほど低くなって、向かいの山との間に谷を成していた。中腹の一ヶ所からは、炭を焼くのか、煙が一筋昇っている。  彼女たちの騒ぐ声が聞こえて来た。  「痛い!もっとそっとしてよ。いっ、痛い!」  「辛抱しなさい。あなたが悪いのよ。下をよく注意しないで、上の方にばかり気を取られているから、落ちたりするのよ...

トランプ大統領、日本との相互関税合意の思惑

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酷暑の中、咲き始めた庭のサルスベリ 2025.7.24   参院選で与党の過半数割れが報じられた翌日、待っていたように、日本との相互関税合意のニュースが流れた。第一報は トランプ大統領のSNSでの書き込みという、最近おなじみの報道形態である。マスコミもすべて後追い報道と化してしまっている。 トランプ大統領の外交、内政の政策を見ていると、すべてがトランプ氏及び応援する陣営の損得で発せられていると思う。かつては、アメリカ大統領の政策は、色々問題はあったけれども、善悪が基準であったように思うが、今や露骨に損得のみが前面に出ている。   トランプ大統領の関税政策も、トランプ氏の損得を考慮に入れれば大変分かりやすい。まずは大きな関税率を打ち出す。株価が大幅に下がることは損になるから、合意のために期限延長のような政策を打ち出し、株価の一方的な下落に歯止めを掛けながら、各国と交渉を行い合意を目指す。関税の25%が15%に下がれば、各国は得したように思うが、15%でも関税率は大幅に上げられているのである。 それを見て、株価も大きく戻し、トランプ大統領に損はなく、増えた関税はすべて国庫に入り、すでに打ち出している大幅減税策の原資になる。さらに時間はかかっても、諸外国に後れをとっているアメリカの諸産業が興隆して、大きな雇用を生むことになる。 本当にそんな思惑通りになるのであろうか。そもそも自動車産業のように、アメリカ発祥の業種が海外へ移っていったのは、輸入関税に問題があったからではない。海外のメーカーがきめ細かい工夫と努力を続けてきた結果である。 関税率がどんなに上がっても、アメリカへ輸出している各国の業者は、関税分を安易に値引きして輸出してはならない。輸入関税はアメリカ国民が払わなければならない税金だから、値引きしなければ、アメリカ社会に輸入品の物価の高騰という形で、たちまち帰ってくる。一方、国内産業の興隆で雇用が生まれるのは、可能であっても何年も先のことである。 損得勘定だけで実施した輸入関税政策は、アメリカ国民の不満で撤回されるのも、そんなに時間はかからないと思う。何もトランプ大統領の任期満了を待たなくてもよいだろう。 ところで、トランプ大統領の 日本との相互関税合意は、日本の参院選で与党の大敗北を目にして、トランプ大統領の慌てぶりと見たのは自分だけだろうか。日...

「竹下村誌稿(解読版)」拾い読み 2 鵜田里の薬師

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  庭のマンリョウの花とセミの抜けがら   そういえば、今年はまだセミの声を聞かないなぁ  暑すぎて躊躇しているのだろうか  2025.7.23   どこを拾い読みするかは、決めないで、解読版をぱらぱらめくって、目に留まったところを読んで、ここへ載せる。何が選ばれるかは、自分も分からない。そんな選び方でご勘弁。脈絡がないのが「拾い読み」の面白さだと思ってもらいたい。 今日の 「拾い読み」は「鵜田里の薬師」である。 解読版の125頁に記事はある。要約して以下へ示す。 話は霊異記の記載による。 霊異記は「日本霊異記」とも呼び、 薬師寺の僧景戒が著した、漢文で書かれた日本最古の説話集 。大井川の河上、遠江国榛原郡の志戸呂に 鵜田里 という村があり、天平宝字二年(758)三月、 鵜田里の河辺の砂の中より、「我を取れ、我を取れ」の声あり。通りかかった僧が掘ってみると、薬師仏が左右の耳を欠いた状態で出てきた。僧は仏師にその耳を造らせ、 鵜田里に堂を建て、その薬師仏を安置した。 鵜田里は、湿潤な沼沢(淖=うたり)   を語源としているのだろう。大井川に水が溢れれば、たちまち河と成るような近辺の土地を指していると思われる。霊異記には 鵜田里は遠江国榛原郡 質侶(志戸呂)郷にあったとするが、今、その薬師仏は川向うの駿河国志太郡野田村の鵜田寺薬師堂に安置されている。大井川の西と東に話が一見食い違っているように見える。 この食い違いについて、その後書かれた各種史誌に、さまざまな説が記されている。「竹下村誌稿」では、諸説を示して、真実を解明しようとしている。 「榛原郡志」では 、鵜田里は古代は 質侶郷の一部だったが、しばしば起きる地変で消滅したとする。その証拠に、榛原郡 質侶郷にあった横岡古城址は宇田城とも称されていた。 「元享釈書」ては、霊異記を再録した後、この霊仏は 質侶薬師と称し祭られていたものが、洪水で今の鵜田寺近くへ漂着したもの だとする。 「地名辞書」では、 鵜田里が 遠江国榛原郡 質侶(志戸呂)郷にあったというは、 霊異記作者の伝聞の誤りで、もともと鵜田寺の近辺に 鵜田里はあったとする。鵜田寺の近辺も 、湿潤な地(うたり)であった。 この他、駿河風土記、駿河新風土記などの説を紹介し、何が真実かを検討している。 (この先...

自分古文書(2)「赤い発光体」4

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  庭のサフランモドキ 花が絶えていたと思ったら 或る日申し合わせたように 一斉に花が咲く 2025.7.22   こんな夢を見たことはないだろうか。見始めから、自分は故郷の町を目指して歩いている。一人の時もあるし、他の誰かが同行の時もある。どのくらい離れたところから歩き始めたか。どうして電車に乗らずに歩き始めたのだろう。そんな事情は一切分からない。でもこの先に故郷があるという、確信に近いものはある。山道あり、川沿いの道あり、山里やお寺や森もいくつか過ぎた。何となく見たような景色もある。向こうの山は故郷の山ではないか。しかし行けども行けども故郷の町には着かない。そのうちに目が覚める。そんな夢を幾度も見て、いまだに故郷へ到着の夢には辿り着けない。 そんな夢が何を意味するのか。夢判断すればわかるのかもしれない。ともあれ、今は、 自分古文書「赤い発行体」の第4回を載せる。  ***********************************   赤い発光体 4  想像通りであった。そこには『ヤッチャン』と呼ばれていた女学生がその丸い顔を少しばかり青変させ、困り果てた様子で下を覗き込んでいる。そうすると『タカチャン』と呼ばれていた女学生が下に落ちたんだろうか。私は近づいて、出来るだけ冷静を装って言った。  「どうしました? 誰か落ちたんですか」  返事を待たずに下を覗いて続けた。  「三メートル位はあるな。上がれますか?」  言ってから、何と愚問を発したのだろうかと思った。それもそのはず、三メートル位の崖には草が疎らに生えている程度で手掛かりになりそうな物はほとんどなかった。女性には勿論自分でさえもとても登れそうにないことは一見して明らかであった。  下にうずくまっていた女学生は私が敵か味方か注意深く観察するような視線を送って来た。上から覗き込んでいる女学生よりはやや面長に見えるその顔には、よく整った目鼻があり、それらが顔を立体的に見せていた。彼女は私を信用したのか、あるいは早く上がりたいという気持に駆り立てられたのか、  「腰が」と助けを求めるように言った。  どこから降りようかと付近を見回すと、五、六メートル程向こうの崖の途中に、少し細いが手掛かりとなりそうな木が生えていた。その木と付近の草などを手掛かりにして急...

「竹下村誌稿(解読版)」拾い読み 1 竹下村の由来

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      頂いた巨大スイカ   重さ17kgという、一人でやっと持てるくらい どうやって食べよう!?  2025.7.21   午前中、掛川の孫、まーくん、あっくん、えまちゃん、三兄弟妹が、久しぶりに揃ってやってきた。兄弟の野球が今日はないのだという。写真は持参した、初馬の畑で採れた巨大スイカだという。17kgは4、5歳の子供の体重ぐらいか。同じくらいの巨大スイカ、ニ、三日前マーケットに並んでいるのを見た。3000円を超す値段が付いていた。近頃、スイカが大きくなったように思うのは、自分だけだろうか。小学校の頃の、家でのスイカの食べ方、 真っ二つに切って、一方に兄貴と親父、もう一方に自分とおふくろが、それぞれ大きいスプーンを持って、よーいどんで食べた。あの頃の食べ方は、こんな巨大スイカでは出来ないだろう。   ************************************************************   「竹下村誌稿(解読版)」を手掛けてなら、さぞかし「竹下村誌稿」に詳しいんでしょうねと言われるが、解読したのは、2017.11~2019.2で、もう5年以上前の事。記憶も薄れている。何より解読作業は、読書と違って、内容が記憶に残りにくいようだ。解読に気を取られて、内容は二の次になるのだろう。 そこで、しばらく「竹下村誌稿(解読版)」を改めて拾い読みして、紹介しようと思う。何しろ400頁を越える大著である。最初から読み進めるのはきつい。適当に拾い読みになることを、ご容赦願いたい。 最初は「竹下村」の「竹下」の由来についてである。やはり最初に気になるだろう。「竹下」の由来については「竹下村誌稿(解読版)」(以降、解読版と呼ぼう)154頁にある。要約して示す。 掛川誌稿の竹下村の項には、元、竹の下と呼ぶとある。東の方、斎藤島の辺、大井川堤に竹林ありて、その下に人家ありしより、竹の下を村名とすとある。 また一説に、天正中(1573~1593)、武田氏の遺臣武田宣勝なるもの、駿東郡竹之下に潜伏し、竹之下宣勝と改め、後、縁故を以って本郡菊川に着し、慶長中(1596~1615)、一たび本村に来たり、開墾に着手す。よって竹之下村と称す。宣勝はその後、大坂の豊臣氏の招き...

「竹下村誌稿」の市民遺産への登録、一歩進んだか?

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    庭のアゲハチョウ   春の蝶のように小振り 暑さの影響だろうか、少し元気も ない  2025.7.20   昨日は午前中、 金谷宿大学「古文書に親しむ(初心者)」講座、引き続き、午後も 金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」講座を実施する。2講座で4時間は、近頃はかなり草臥れる。暑さの所為だろうか、両講座共にそれぞれ10人中、欠席が3名ずつあった。 講座のあと、N氏と共に、みんくるのH館長と会い、先日、島田市文化財係、M主事と 博物館で 面会した話をし、 「竹下村誌稿(解読版)」の しまだ市民遺産への登録について、アドバイスを頂いた。 H館長の話によれば、 「竹下村誌稿」に、渡辺陸平氏の生原稿、大正13年の 「竹下村誌稿」の初版、昭和55年の金谷町による復刻版、さらに、今回の 解読版と、100年にわたって、地元で大切にされて来ていることが、市民遺産として価値がある。その中でも、最初の生原稿が現存していることが最も大事と聞いた。 そこへ、囲碁大会でみんくるを訪れていた、陸平氏の御子孫の渡辺淳氏が通りかかり、一緒にお話に加わって頂いた。渡辺氏によれば、生原稿は今まで渡辺家で保管してきたが、自分が保管が難しくなったら、しかるべき公的な機関に保管をお願いしたいと思っていると聞いた。島田博物館や県立図書館などが考えられるが、出来れば地元に置きたいとは、H館長の話である。  これで条件は揃った。あとは 島田市 への働きかけであるが、「 しまだ市民遺産 」の活動に、やや消極的に見える 島田市 に対しては、市会議員に議会で質問していただくのが一番効果的かもしれないと、 N氏の発言で、しかるべき議員に依頼してみることになった。 夕方、 N氏が来訪、「ほほえみ」発行の金谷コミュニティ委員会のO女史から、 「竹下村誌稿(解読版)」に目を通したが、内容の充実に驚かされた。ついては、四コマ漫画に引続き、次号で再度紹介したいと、連絡を頂いたと聞く。有難いことで、見る人は見ていると、大変心強く思った。

「竹下村誌稿」の解読版の経緯

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竹下村誌稿 解読版  A4判で423頁、厚さ2.8cm スマホと比較  2025.7.19 数年前、「竹下村誌稿(復刻版)」(昭和五十五年金谷町発行刊行)が手に入ったので、自分が住んでいる竹下区の昔が知りたくて、読んでみようとしたが、文章には自分の知らないような漢字の熟語が、綺羅星のごとくにちりばめられて、そのまますらすらとは、とても読めない。そこで、古文書の解読を勉強してきた自分が解読して、何とか今の若い人でも読めるようにしたいと思った。 アルファベットに比べて、象形文字の漢字は何とも美しい。その一文字一文字が意味を持っているからだ。この漢字を平易な現代語に変えるのは、至難の作業の上に、それぞれの漢字が持つ美しさを失うことになる。 そこで、漢字にはあまり触らないで、旧漢字を新漢字に変えるだけにとどめ、その分、漢字熟語の読みと意味を、うるさいくらいに注として付けて、苦労せずに読めて、意味を知ることが出来るようにしようと思った。さらに、変体仮名や旧仮名遣いは、すべて現代仮名遣いに改め、ほとんど打たれていない句読点等を多めに付けた。 読み進むうちには、文献や古文書などからの引用が、ほぼそのままに記されているところも多く見られた。これは自分の専門だから、読み下した上に、新漢字、新仮名遣いに変えて、若い人でも読めるように心がけた。漢文については、返り点を補い、読み下し文をつけた。その上で、漢字の熟語の意味はくどいほどに注で明らかにした。 そんな作業を、自分のブログ「かさぶた日録」に、少しずつ密かに載せながら勧めた。そんな中で、毎日「かさぶた日録」を閲覧されて、ブログと「竹下村誌稿(復刻版)」と照合しながら、誤字、脱字、行抜け、重複などのチェックをして、コメントで指摘をしてくれた方が、一人だけいた。同じ竹下区の斎藤辰美氏である。 そのコメントが、解読を終えるまでの一年三ヶ月、自分の孤独な作業に、どれだけ励みになったか知れない。剰え、部分的に自分が解読を跳ばした所を補い、最後に「竹下村誌稿(解読版)」の原型を製本して、図書館に入れたり、私にも一冊頂いたりした。望外のことで、大変有難く思った。斎藤さんの口には出さない励ましがあってこそ、この大著の解読版がなったと思う。 私事であるが、会社勤めの40年余、企業の会計が仕事で、人の金の勘定や銀行との取引、税務署とのや...

自分古文書(2)「赤い発光体」3

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子供たちが周りで騒ぐので   カルガモは池の中の岩に避難 静岡城北公園の池で 久しぶりにカルガモの子育てをみるが 子カモが三羽とは淋しい    2025.7.18 午後、駿河古文書会で静岡へ行く。今日は会長さんも欠席、責任を感じて発言をいくつもしたが、ピント外れの意見もあったかと思う。しかし、黙って聞いているだけでは古文書会にならない。黙ってやり過ごす方が楽とは思うけれども、やっぱり今後も、出席すれば何か発言するだろう。  自分古文書「赤い発行体」の第3回を載せる。    *********************************   赤い発光体 3  ふと眼を落とすと先程登って来た道を二人の女学生が登ってくる。予想していたにもかかわらず、姿を現実に見た時、極端に狼狽している自分に気が付いた。彼女たちも私を見つけたらしく、指差して何か話しながら登ってくる。私はその話題が臆病で卑怯な私の行為についてであるという妄想に再び取りつかれた。妄想に何の疑いも抱かないばかりか、その冷酷で厳しい視線に晒されていることに耐え切れなくなり、慌てて櫓から降りかけた。  その時、彼女たちの一人の姿が掻き消すように見えなくなった。妙に胸騒ぎを感じて急いで櫓を降りた。あの辺を登って来る時、危うい崖のあったことを思い出したのだ。櫓は躊躇なく降りたが、この後自分はどうすればいいのか迷った。想像が当たっているとすれば彼女たちが困っていることは確かである。悪くすれば大怪我をしている可能性もある。きっと私の助けを必要としているに違いない。だがすぐには足が前へ出なかった。もし想像が間違っていたなら、彼女たちの軽蔑に満ちた視線を受け、嘲笑を浴びるであろう。どうしよう、行くか、向こう側の道から下ってしまおうか、それが問題だ。  迷ったけれども私の心は助けに行く方に傾いて来た。あの時の記憶がはっきりと焼き付けられており、後悔と自己嫌悪に苦しめられ続けている時だけに、間違っていたときの恥の恐怖より、このまま見過ごしてしまったときの後悔の方が恐ろしかった。やっと決心して足を前へ踏み出した。この一歩が私を大きく変えようとは、その時は思いもよらなかった。こうなると、自分でも不思議なほど糞度胸がついて、それと思われる所を目指して駆け降りて行った。 (つづ...

自分古文書(2)「赤い発光体」2

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  頂き物のスイカ 甘かった?と聞かれて 甘かったよ、と答えながら 拙い、まだ冷蔵庫に入れたままだ! 早速切って食べた 間違いなく、甘くて美味しかった‼ 2025.7. 17 午後 、金谷郷土史研究会に出席。8月に岡部英一氏の講演を依頼することになった。来週に頼みに伺おうと思う。「竹下村誌稿」の宣伝のとして、当ブログで、 「竹下村誌稿」 の内容を少しずつ紹介してみてはどうか、との提案があった。気が付かなかったが、それは良い考えなので、さっそくやってみようと思う。今日、明日という訳にはゆかないが、準備の出来次第、やってみよう。  自分古文書「赤い発行体」の第2回を載せる。  ***********************************       赤い発光体 2    我に返った時には、苦痛と疲労はすでにすっかり消え去っていた。苦痛が去った時、思い出すのを最も恐れていたあの時のことが再現してきた。思い出すまい、思い出すまいとすればするほど、あの記憶は火にかざされたあぶり出しのように、益々はっきりとしてきた。私はそれをどうすることも出来ず、唯その責め苦に耐え忍んでいただけであった。  「おれは貴様を見損なった。貴様のような奴とはもう絶交だ」  生来内向的で、友人をほとんど持たなかった私にとって、唯一の親友と思っていた彼から、このような言葉を聞いた時は、死刑宣告を言い渡された被告のように、しばらく瞬きもせずつっ立っていた。こんな暴言を吐く彼に対して、腹を立てることが出来れば、こんな辛苦は嘗めなかっただろう。私は彼にではなく自分に腹を立てていたのだ。  あの時、なぜ飛び出せなかったんだろう。あれは私の不注意から起こったんだ。それを彼は自分の不注意からだと言って買って出た。一発、二発、彼は歯を食い縛って耐えた。  「ぼくなんだ。僕の不注意だったんだ。彼は何も知らないんだ」  この言葉が何度、喉元まで出て来たことだろう。しかし、そのたびに臆病者の私はその言葉を呑み込んでしまった。回りを取り囲んでいる野次馬の中でぐっと耐えている彼の歪んだ顔を、唯、呆然と傍観しているだけであった。  彼の暴言とも等しき言葉が当然に思えた。すべては親友を裏切った臆病で卑劣で男の風上にも置けない自分が...

自分古文書(2)「赤い発光体」1

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来日山遠景 前は円山川を渡る京都丹後鉄道宮豊線 (往時は国鉄宮津線) 写真はネットから拝借してきた  2025.7. 16 大学受験の大切な時間、こんなことに費やしてよいのだろうかと、心配するかもしれないが、机に座っておれば受験勉強ができるわけではない。気分転換は何も屋外へ出て身体を動かすことだけではない。同じ机の上であっても、メリハリが必要だと思う。60年前のことながら、体験者が言うのだから間違いがない。それにしても、夏休みとはいえ、四日間の気分転換はやり過ぎか。 この物語の舞台は記載がないが、来日山( 来日岳 )標高566.6mの独立峰で、ふるさとの豊岡盆地からは、低い山並みの向こうに小高く見える。 この山の読み方は、地元でも各地域によって異なり、くるひだけ・くりいだけ・くるひやま・くりいざんなどが有る。 それだけ、但馬北部の各地から見えた山だとう証拠である。 自分たちは「くるひざん」 と呼んでいたように記憶する。「狂い惨」と文字を当てはめれば、「八個の活字」を思わせる山名だと、今気付いた。 今では山頂近くまで車で行けるらしいが、往時は円山川畔から歩いて登るしかなかった。それでも、何度か登った。見晴らしと雲海が有名というが、自分の記憶にも豊岡盆地方面に広がった雲海を見たような記憶がある。自分の体験か、後から付いた知識か、不明であるが。 「来日」は「日がやってくる」、まさにこの小説のラストを思わせる山名だが、そのことを意識しては、いなかったと思う。  ***********************************       赤い発光体       はじめに  ある夏の日、川端康成の『伊豆の踊子』を読んでいた。その作品は今までにも数回読んでいたが、今度はいつもと違っていた。読み進んで行くにつれて、自分もああいう小説を書いてみたいという衝動にかられた。それはいよいよ募り、とうとうペンを持ち書き始めた。  私は出来るだけ文章も似せようと努力した。始めの一、二行はどうにかそれらしい書き出しが出来たと思った。しかし、三行目、四行目と進むにつれて自己流の文章に戻ってしまった。少し失望しながらも書き続けて行った。それでも初めのうちは引き締まった文章が書けていた自信があった。だが、会話が入るようになってから...

なぜ、今、自分古文書なのか

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    久しぶりの雨 線状降水帯やら竜巻やら 荒れまくっている所もあるが 当地では恵みの雨で、植物が皆な大喜びである  2025.7. 15 「自分古文書」ー なぜ、こんなことを思いついたのか。たまたま古い書類を見つけたというのは嘘である。 高校時代まで、故郷「但馬の国(兵庫県)」で育った。大学に進学して、静岡県に初めて足を踏み入れた。但馬の国で有名人といえば、冒険家の植村直己氏(高校の四年先輩)ぐらいで、地味な地域である。 兵庫県といえば、神戸から播磨の瀬戸内沿岸の地域が中心で、北の但馬は学業でも、スポーツでも南には後れを取っていた。(60年前の話) そんなところだから、高校を卒業すると、友人たちは皆な京阪神に出る。あるいは東京に出る。しかし、静岡へ来る人は稀である。(島田市の元教育長松田氏は、高校は違うが、唯一の同郷の先輩である)遠距離ながら友人たちとは薄く交流はあったが、60年経つうちに、次々に交流の輪から消えていった。今や、その頃の話を書いても、残念ながら誰からも、異論・反論の可能性はなくなった。ならば、その頃に書き記した古書類をブログに載せても、問題ないだろう。そんな思いで の「自分古文書」である。 高校三年の夏だったか、その一年後だったか、城崎温泉の仲間の家へ、友人(男)達5、6人が集まって、一夜を過ごした。美食をするわけでもなく、 温泉に入るわけでもなく、町屋の木造三階建ての、廊下を歩くと軋むような古い家だった。かっては旅館だったのかもしれない。話題はもっぱら学校の事、社会や政治のこと(当時は60年安保と70年安保の中間位な年である)であったと思う。 夜が更けて、大きな部屋で枕を並べて、ようやく女性の話題になった。田舎の高校で、理科系進学クラスには女子学生は数人しかいなかった。皆な背伸びをして、虚実を混ぜながら話している。それを聞きながら、自分には何も話すことがないと、黙って聞くしかなかった。 高校時代の女性がらみの唯一のエピソードといえば、高校2年の文化祭で、仲間の生徒会長から頼まれて、演劇実行委員長を務めた。副委員長は女性で、今の言葉でいうと「ちょいかわ」な女生徒だった。役目がら、よく打ち合わせなどしていた。ある日、一年先輩の男から呼び止められて、言葉を掛けられた。どう言われて、どう答えたかは忘れたが、要するに「俺の女に手を出すな...

読了のしるしか、奥付に「赤い点」が

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   今夜の 我が家のサラダ レタス・キャベツ・パプリカ・タマネギ 頂き物のウミブドウ コーン・シーチキン(鰹)  2025.7. 14 図書館から借りる文庫本の奥付に、赤い点が記されているのに気付いたのは、しばらく前であった。なんだろうと見過ごしてきたが、どうやらシリーズものなどで、自分がどこまで読んだのか、しるしをつけているらしい。図書館の本棚にズラリと並んだシリーズもの、どこまで読んだか、とても覚えきれない。自分も同じ思いをすることがある。 しかし、いくら小さな印とはいえ、やってはいけないことだ。図書館所蔵の本は市民共有のもので、色々な書き込みや、記憶に留めるための覚えの線は、やってはならないのと同じことである。 中には、作者の明らかな誤記や、登場人物名の間違いなどを、親切心で指摘した書き込みも気付くが、それであっても書き込んではならないと思う。読者の中には、間違いを見つけることを楽しみにしている人もいるかもしれない (笑) 。個人の所有物ではないのだから、出来るだけ汚さずに、返却するのがルールだと思う。 図書館窓口で指摘しようかと迷ったが、自分の読書に邪魔になる訳でもない。事を荒立てることもないかとも思う。ただ、 前ブログ「かさぶた日録」では、波風を立てるのがブログの目的ではないと思い、発言を 随分 慎んできた。 「かさぶた残日録」では、それも解禁して、自由に発言しようと決めていた。 この件についても、自分と読書傾向が似ているのか、あまりにも多くの本に見かけるので、言わずもがなながら、 昨日 、窓口で返却の本二冊で示して指摘しておいた。「鉛筆で隅にチェックしているのは時々見かけるが、鉛筆なら消せるけれども、これは消せるかねぇ。」消すこともよいが、 何よりもマナー違反を調査して、本人に注意すべきである。 一方、図書館内のパソコンで、過去の借入実績を簡単に検索できるようにするサービスを作って、提供してみてはどうだろうか。 既読かどうか確められれば、しるしする必要はなくなる。一考を望む。