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【活動の記録】と【読了図書】11月4日~11月30日

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歳代記 幕末編と明治編 金谷宿「松浦幸蔵日記」の解読版 2025.11. 30 【活動の記録】 11月7日      午後、 駿河古文書会に出席。   11月8日      午後、 駿遠の考古学と歴史受講。   11月12日     午後、まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」 講座教授。   11月13日     午後、掛川古文書講座受講。   11月18日     午後、静岡県立図書館へ狂歌書籍借りに行く 11月19日     一日、金谷郷土史研究会社寺見学会参加。   11月21日     午後、駿河古文書会に出席。 11 月28日    午後、藤枝郷土博物館、蔦重展見学。     【読了図書】 読書:「 アガタ 」  首藤瓜於  著 読書:「 江戸っ子奉行始末剣 」  山手樹一郎  著 読書:「 本所おけら長屋 」  畠山健二  著 読書:「 佐伯警部の推理 」  佐々木譲  著 読書:「 職分 萩尾警部補シリーズ 」  今野敏  著 読書:「 南町奉行と百物語 耳袋秘帖 」  風野真知雄  著 読書:「 死に急ぎ 手遅れ清州藪医者日誌(二) 」  藤井邦夫  著     読書:「 本所おけら長屋(二) 」  畠山健二  著 読書:「 へっぽこ膝栗毛 四 」  稲葉稔  著 読書:「 本所おけら長屋(三) 」  畠山健二  著   *******************************************************   今月は、幕末から明治初期にかけて、金谷宿の様子が知れる、松浦幸蔵の「 歳代記(ねんだいき) 」という、公的な日記を解読していた。古文書解読の講座を受講し始めた頃、「課題」に取り上げられて読んだもので、「金谷町史」の資料編に解読文が掲載されているが、旧漢字、旧かな遣い、読み下しもないので、一般の人にはなかなか読めない。これを、新漢字、新かな遣い、読み下しも加えて、誰にでも...

町の80代以上の男どもはどこへ / 散髪屋にて

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昨日、金毘羅山公園唯一の紅葉は 桜の枝に巻き付いた蔦の葉だった 2025.11.28   午後いちで、行きつけの散髪屋さんに行った。いつもの親父さんはまだ昼食中なのか居なくて、息子さんが髪を湿らして下準備をしてくれる。親父さんは一度体調を崩して休んだことがあったので、体調を聞こうとした質問を呑み込んで、「最近、髪が薄くなったことに気付いた」と話すと、「まだたくさんある方ですよ」という。「髪はたくさんある方が散髪はやりやすいのだろうね」ときけば、「そうですね、それでも色々です」まあ無難な答えだろう。 親父さんを呼びに行って、出て来た。体調は大丈夫かと聞く言葉も呑み込んだ。「同じ班で永年付き合ってきた亭主が皆んな先へ逝ってしまい、寂しくなった」と話す。つくづく町は住民と共に歳をとっていくものだと思う。我が班も出来てから50年近く経って、ある時は、冗談にもう「定年通り」だねと自笑していたのが、いつかそれが「年金通り」になり、付き合ってきた亭主たちが皆んなこの世を去って逝き、「葬式通り」から、今に「空き家通り」へと変貌して行くのかもしれない。 「なかなか80代の人を見つけるのが難しい。歳を取ると皆んな施設に入るのか、見かけなくなってしまう。最近、老人ホームに散髪のボランティアで行ったが、Aさんがよろしくと言ってましたよ」と散髪屋の親父さん。 「Aさんは会社の先輩で、町の古文書講座に入ったら、そこの受講者で頑張っていたが、そういえば、この頃、見かけなくなった。そうですか、老人ホームに入っていたんだ。」 「頭ははっきりしているし、足腰もしっかりしていて、老人ホームに入るような状況ではないように思ったが、奥さんが亡くなったのだろうか。」  男性の平均寿命は81歳だから、もっと町にも80代の男性が居ても良いと思うのだが、平均寿命の何歳分かが、老人ホームでの生活になっているのだろうか。 まったく、良い話題ではなかったのだが、散髪が終われば、頭はすっきりと気持ちよく帰宅できた。 

天気は良いし、ちょっと紅葉を / 藤枝市郷土博物館「蔦屋重三郎展」

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耕書堂ミニチュア(藤枝郷土博物館)   耕書堂ミニチュアの内部 2025.11.28 天気は良いし、ちょっと紅葉を見に行こうと、女房と午後、出かけた。確か藤枝の金毘羅山公園が見頃のようだとテレビでみたような気がして、目的地とした。その辺はいい加減なもので、瀬戸川沿いの駐車場には、車が一台もいなかった。久しぶりの山道を登り始めて、ここは桜の名所なのだと気が付いた。桜の葉も散ってほとんど裸木である。間違いなく、間違えた⁉  それでも無人の山は静かでよい。人っ子一人会わず、鳥さえも一羽も見なかった。これではマスクがなくてもインフルエンザに感染する恐れすら全くない。 金毘羅山、登った尾根に 少し傾いた太陽 山道にはどんぐりが沢山落ちていた。熊はどんぐりは食べないのだろうか。もっともここまでは熊も出て来ないだろう。考えることがないので、余分なことまで考えながら下山した。まあ、散歩してきたと思えばよい。 そのあと、蓮華寺池公園へ回る。ここも紅葉はまだまだと思ったから、藤枝市郷土博物館へ蔦屋重三郎展を見に行くことにした。博物館前で、歩き始めて間がない、 小さな子供が、ちょこちょこと歩き、母親が脇で見守っている。女房が何やら話しかけている。1歳3か月とか聞こえる。博物館が好きなのか、ちょこちょこと入ってしまうので、今まで2回も蔦重展を見たとこぼしている。こんなにちっちゃくて、こんなに達者に歩けるものだろうか。 蔦重が関わった浮世絵が展示されているが、名所の浮世絵には何とも奇抜な絵が多い。枝がくるりと丸く曲げられ、向こうに景色が広がったり、馬の何頭かの馬の脚が画面の半分を占めている絵など、江戸の絵師の奇抜な発想の自由度合にはいつも驚かされる。世界が驚いた浮世絵も、それを喜んで購入した江戸っ子たちが、それを支えていたのだと思う。現代のアニメ文化も、それを面白いと熱中した若者たちがいて、初めて興隆し、世界進出できたのだ思う。 蔦重の店 「耕書堂」のミニチュア は、夫々の部屋で刷りなどの作業をする人形まで細部にわたって作られていて、ついつい中までのぞき込んでしまった。

自分古文書(15)6年A組 47年目の同窓会(6)

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    「一升瓶を抱えるように」とはこんな姿勢かと思う 女性では失礼なので、流行りの熊 (ネットより借用) もちろん比喩的な表現である  2025.11.27 香港でマンションが燃えている。出火から30時間経つが未だに消火していない。31階建ての高層マンション、8棟中7棟に燃え広がって、消防もほとんど役に立っていない。死者は65人に達し、まだまだ増え続けている。築42年で、補修中の火災だったという。まるで「タワーインフェルノ」を7倍にした高層ビル火災である。 ****************************************************** 朝日の記者をしていて、あと2年で定年を迎えるという上※幹代女史は、母から影響を受けて大のお茶好きだという。昔はお茶は相対販売で売られていたという話をすると、今も彼女はそんな店でお茶を買っているという。また、福寿園が“宮沢りえ”でペットボトルの“伊右衛門”とは片腹痛い、情けないという。福寿園というとお茶の席で「しつらえは?」と聞かれたら、「福寿園でございます」と答えておけばよいといわれたほど、宇治茶の代表的なお茶屋さんだったのに、どうしてサントリーの口車に乗ってペットボトルなどを作るのか。大変な気炎であった。 話題は煎茶業界の話となり、コーヒーや紅茶など飲ませる店はたくさんあるのに、煎茶を飲ませる店がどうしてこんなに少ないのか、業界は努力が足らないのではないのかと手厳しい意見であった。私もまったく同意見で、業界を代表して謝っておいた。 女性陣が部屋に引き上げたが、上※女史は一人残り、 一升瓶を抱えるように してさらに怪気炎を上げる。 長※先生が上※女史に音信不通になっている松※氏のことをよろしく頼むといわれた。彼女は小学校の生徒の行く末をこの歳まで気にしてくれる先生に感激をしたと、何度も話した。 また長※学級では学級委員長の選挙で、当然のように男女区別なく投票させた。そして男子が委員長になったら女子が副委員長に、女子が委員長になったら男子が副委員長になるとされた。ところが北中学校に上がると、男子から委員長を選ぶという。なぜ男子なのか、女子でも良いではないかと質問したところ、後で女子にとり囲まれて、「委員長は男子がやるのが当たり前だ」といわれた。それが男子からではなくて女子か...

自分古文書(15)6年A組 47年目の同窓会(5)

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  城崎温泉7番目の外湯「さとの湯」   但し、2024年から休業中という 理由が設備の老朽化とあったが もっとも新しい2000年に出来た外湯が 老朽化とは嘘っぽい  2025.11.26  「さとの湯」の写真を拝借しようと、検索したところ、2024年から休業中とあった。理由が設備の老朽化というが、2000年に開業した最も新しい外湯が老朽化とは嘘っぽい。経営がうまくゆかなかったのであろうか。再開の目途はたっていないという。写真のような立派な外湯だったのだが。 宴会の終わったあと、まだまだ同窓会はこれからだ。皆んな還暦に近く、かつてのような「色恋沙汰」のうわさはすっかり影を潜め 、今や病いと人死にの話が幅を利かす。この時でも、もう卒業から45年を越えている。現在はあれから早や20年経っている。  *******************************************************  お開きの後、一度部屋に戻り、岸 ※ 君・道 ※ 君と外湯に出る。城崎温泉には外湯が七湯ある。奥から数えて、鴻の湯( 幸せを招く湯 )・まんだら湯( 一生一願の湯)・ 御所の湯( 美人の湯) ・一の湯( 開運招福の湯) ・柳湯( 子授けの湯) ・地蔵湯( 衆生救いの湯) が昔からある六湯で、5年ほど前、駅前に “さとの湯” という外湯が出来て、全部で七湯になった。 前を行く女性陣に付いて行って、駅前の “さとの湯” に行った。1階の外に足湯があり、フロントを通って2階に一般風呂、3階に露天風呂とサウナがあった。2階から3階へは裸で階段を上がる。これは一種異様な体験である。サウナにはペンギンサウナという訳のわからないものもあった。入らなかったが、暑いサウナと交互に入る仕掛けの冷たいサウナのようである。入場料は600円だが、旅館に泊まると外湯に入る入場券を何枚でもくれる。といっても、なかなか外湯の“はしご”は我々の年齢にはきついが、七湯を巡ると賞品をくれる企画もあるようだ。 外湯から戻って201号室に集まり二次会となる。途中から女性陣も加わり、思い出話や同級生の近況の話などに花が咲く。 前々回の同窓会に出席した宮※氏は、その2年後、心筋梗塞で急死した。開かない鍵を開けることを請け負う“鍵屋”になって...

自分古文書(15)6年A組 47年目の同窓会(4)

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19日、龍潭寺の本堂前、広い庭のあちこちに ツワブキの黄色の花が咲いていた これは庭師が植えて育てているのであろう  2025.11.25 夜、熊本の山地で震度5強の地震が発生した。熊本での大地震は6年前の6弱の地震以来である。最近は、遠い地域の地震でも、緊急地震速報で驚かされる。 自分古文書(15)6年A組 47年目の同窓会の第5回である。ようやく同窓会が始まる。  *******************************************************  宴会は、長※政憲氏が仕事の都合で遅れるとの断りがあって、時間通り6時から始まった。まずは長 ※ 先生の喜寿の祝いの紹介と記念品の贈呈があった。奥さんも同い年だと思ったので、奥さんの歳を伺うと76.5歳だという。つまり12月には喜寿ということである。重ね重ねおめでとうございます。先生のお礼の言葉があって場がほぐれた。 今回、鈴 ※ 俊輔氏が奥さんを連れてきていて驚かされる。席が隣になったので、いろいろと昔話をした。小学校6年から中学1年ごろ、放課後は、いつも俊輔氏と一緒に長 ※ 先生の家に入り浸り、裏の畑でグミやクルミを取ったり、奥さんとトランプをしたりして遊んだ。夕方、先生が帰って来ると入れ替わりに家へ帰るという、まことにのんきな生活をしていた。よく奥さんも付き合ってくれたものだと思う。 あるときは焼き物を作るといって瓦屋さんに行って土を手に入れ、こねて器を作って、先生宅の裏の畑に勝手に穴を掘り土を盛って作った窯で焼いた。当然、肉厚の土器ぐらいしか出来ない。表面にガラス質の瀬戸物のような器を作りたいと子供心に考えて、そのためにはガラスを混ぜれば良いだろうと、ガラスを細かく砕いて入れようとしたことを覚えている。もちろんそんなことで出来るはずもなく、大人に止められたのか、最後までは作った覚えはない。やっていたら手など傷だらけになっただろう。鈴 ※ 氏の奥さんを間にして、俊輔氏も時々会話に割り込んで、そんな昔話をした。 また、奥さんは岩手県の出身で、今度京都市に併合されたが、京北町は岩手からは遠い。幸い、俊輔氏の父母が京北町の田舎暮らしが気に入ってくれて、春から秋までは京北町に住み、お正月を越す冬だけお兄さんのところへ帰るという暮らし方をしているという。田舎暮らしはお...

遠州方面見学会/金谷郷土史研究会(4)龍潭寺、宝林寺

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龍潭寺庭園、庫裡から御霊屋を遠望    本堂裏手より、龍潭寺庭園 2025.11.24 19日の金谷郷土史研究会、 遠州方面見学会の最終回である。 秋野不矩美術館の後 、二俣から引佐へ向かう。龍潭寺は何度かお参りしてお馴染みのお寺である。直虎の大河ドラマで一躍脚光を浴びたのは、まだ記憶に新しい。さすが人気のお寺で拝観料が700円は中々のものである。その庭園は小堀遠州の作庭として有名で、庭前でゆっくりと案内放送が流れる。また、Nさんから、小堀遠州の業績についてやや詳しく説明があった。 庫裡へ回ると角の部屋に、井伊直弼の座位の場所があった。参勤の途中に立ち寄ったのであろう。井伊家の御霊屋が庭園のむこうに遠望できる部屋である。もちろん御霊屋へお参りの後、庫裡のその部屋で休憩を取り、お茶などを頂いたのであろう。 宝林寺仏殿(本堂)   宝林寺方丈  日はもう西へ傾いていたが、最後に細江の宝林寺に寄った。もう見学時間は少なかったが、途中で追い出されることもないだろう。拝観料は400円。拝観料で人気度が判る。宝林寺は数少ない黄檗宗のお寺である。臨済宗が日本に伝わって数何百年と経つ内に、臨済宗はだんだんと日本化していく。それを堕落ととらえ、中国より来日して、改革を試みるも臨済宗に受け容れられず、やむなく一宗派を立てたのが、「いんげん豆」に名を残す隠元禅師で、本山は京都宇治の萬福寺である。 仏殿は中国明朝風の建築様式で、Nさんは日本の建築様式の基準とは全く異なる様式だという。仏殿の床は敷瓦がしかれ靴のままで入れる。これも黄檗宗の特徴である。本堂の裏手に茅葺きの方丈があり、仏殿、方丈ともに国指定重要文化財だという。 日暮れが近付いた中を、新東名に乗ると、30分ほどで金谷まで帰ることが出来た。Nさん、何から何までお世話になって、ありがとうございました。  (終わり)              

遠州方面見学会/金谷郷土史研究会(3)秋野不矩美術館

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    秋野不矩美術館、建物外観 秋野不矩美術館、設計のイメージの 秋野不矩氏の絵    2025.11.23 19日、 金谷郷土史研究会、 遠州方面見学会の三回目である。秋野不矩美術館は休館なのだが、建物だけでも一見の価値があると、 文化財の建築物に詳しいNさんの薦めで、 外観だけ見に立ち寄った。開館ならば下の駐車場にとめるべきであったが、休館日なので車で建物のそばまで行くことが出来た。これはこれでラッキーであった。 秋野不矩美術館は、日本を代表する建築史家、藤森照信氏の設計によるという。建築史家として名を知られていた藤森氏は、45歳の時、初めて建築設計して、長野県茅野市、諏訪神社上社の神長官を務めた守矢家の敷地内に、「神長官守矢史料館」を建てた。この建物を見た 秋野不矩氏が気に入り、自分の美術館の設計を 藤森照信氏に依頼したという。 秋野不矩氏の作品のインドの家屋が 設計のイメージだという。 そんな説明をNさんがしてくれた。Nさんは建築に関しては中々知識が豊富で、勉強になる。 秋野不矩美術館「茶室 望矩楼」   美術館手前に、何とも不思議な建物が建っていた。案内板に「茶室 望矩楼」とあった。 秋野不矩美術館の20周年の記念に、美術館設計の 藤森照信氏の設計による空中の茶室というが、梯子がなければ登れず、一般見学は外観のみという、遊び心だけの建物である。茶室として使用されたことがあったのであろうか。 天竜二俣を後にして、次の見学地、引佐の龍潭寺へ向かう。 (つづく) 

遠州方面見学会/金谷郷土史研究会(2)内山真龍資料館

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   内山真龍資料館 2025.11.22 19日、 金谷郷土史研究会、 遠州方面見学会の続きである。計画では、秋葉神社の後、秋野不矩美術館の予定だが、あいにく同美術館が休館だったため、中の見学は出来ないと分かり、その分どこか希望があればと、今日のリーダー、Nさんの言葉で、内山真龍資料館の見学を希望した。 内山真龍は、遠州国学の基礎を築いたと言われる国学者で、名主の仕事をこなしながら、賀茂真淵、渡辺蒙庵、田中道麿(本居宣長の弟子)などに国学を学び、「出雲風土記解」「遠江国風土記伝」「日本紀類聚解」などを著し、文政4年8月22日、82歳で死去している。(資料館パンフより)かつて、何かの折りに資料館を訪れたのだが、あいにく休館日に当たっていて、見学できなかったことを思い出し たのであった。 船明の二本スギ 道の駅「天竜相津花桃の里」で少し早めの昼食にする。山菜そばが850円は高くなったものだ思う。 真龍資料館に行く途中、船明ダムのそばの道路沿いの「船明の二本スギ」前で、暫時、車を止めて貰った。久しぶりに再会する巨木で、まだまだ勢いを保っている。鳥居杉だった二本杉だが、ダムや道路が出来た関係か、神社は引っ越したのか、今はない。自分に気持ちが入っているほどには、郷土史研の面々には、巨木は興味が薄そうで残念であった。 文政二年八十齢像 自画讃   真龍資料館 は前回は長屋門を見ただけだった。あれ、藁屋根ではなかったのか。他の所とこんがらがっていたようだ。入場料200円。国学の中身を展示物にするには中々難しい。唯一、内山真龍自画像(市指定文化財)が、実物やら、コピーやら、写真やらがあちこちに展示されていた。「文政二年八十齢像 自画讃」とある。「讃とは何か」と聞かれ、横に掛かれた画に寄せた文を「讃」というと、説明するが、理解してもらったか、確信が持てなかった。ここには「自画讃」とある。「自画自賛」という言葉なら理解してもらえるだろう。 自分で描いた絵に、自分で賛(詩文)を書いて褒めることが語源である。 この画文は「面白古文書」に使えそうである。 真龍の旧居は現存する旧家を模して新築されたもののようだが、囲炉裏のある板の間や、牛馬と同居の造りなど、往時の様子の一端が窺える。また、側に昔の農具が展示されていたが、その中で手動の縄ない機は興味をひかれた。Gさ...

インフルエンザ予防注射をした

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昨日、遠州方面見学会(金谷郷土史研)にて 杉の巨木越しに「東の神門」(秋葉神社上社)   2025.11.21  朝早く、夫婦して島田のS医院へ行く。二ヶ月に一回の定期検診である。今日は、女房は昔の仲間と昼食会、自分は午後は駿河古文書会で、静岡へ行かなければならない。日を変えても良かったのだが、明日から三日連休になるから、9時にはS医院に着いた。駐車場はほぼ満車で、待合室も椅子が8割方受診者で埋まっていた。 インフルエンザの流行が始まっているのだろうか。コロナ以来、発熱の受診者は車で待つか、別室待機となっている。ただインフルエンザの予防接種を受ける人は待合室に多いのであろう。S医院は受診者の捌き方が上手いのか、たちまち待合室の受診者は減って行った。それでも、呼ばれるにはほぼ一時間かかった。 定期受診後、医者は言う。いま大変な勢いでインフルエンザ患者が増えている。まだ今のところ、学校へ通う子供たちが多いが、すぐにその父兄にうつり、職場にうつって大流行になるだろう。昨年より流行がかなり早いと。我が家は同居に、孫もその親たちもいないから、うつるとしても、きっと最後の方だろうなどと話した。医者は、今、インフルエンザの予防接種をするのは最適だという。二ヶ月前の受診の時、次回予防接種を勧められて、今日はすでに申し込み手続きが済んでいる。まあ、話はそこへ落ちるのだろう。別室に誘われて、夫婦してインフルエンザの予防接種を受けた。 支払いの窓口で、マイナンバーカードの顔認証はどうするのかと聞いた。待合室で時間を持て余して、気になっていたので、聞いてみた。手続きはカード発行時に済んでいるという。皆さん、顔認証でされて行きますよという。まあ、病院ではマスクがあって、顔認証は出来ないだろうけれども、というと、マスクをしていても顔認証が通る人もいるという。えっ、顔認証ってそんないい加減なのかと驚いた。  午後、駿河古文書会、担当はO氏。最初の挨拶は当番で自分が行った。インフルエンザの流行が始まったことと、その予防接種をしたきたばかりだとの話題を交える。高齢者が多いので、最後は健康に留意の話になる。 今日の課題は、前回に続いて「神徳集」で、誰かが書き写した古文書を読んでいる。写し間違いがとにかく多い。中には文を写し手が書き替えてい部分もある。こういう古文書は、世の中...

遠州方面見学会/金谷郷土史研究会(1)秋葉神社上社、東の神門

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秋葉神社上社、金色の鳥居  2025.11.20 昨日19日、朝、快晴、だが寒い。寒さ対策をして8時半集合。出席者は自分も含めて5人。今日の見学会の企画と、案内及び運転手まで兼ねて頂いたNさん、服部菅雄のご子孫のHさん、今月入院手術が待っているというAさん、本日最高齢の元町議だったGさん、そして自分。遠州地方の神社仏閣、特に建物に特化した見学会である。文化財に造詣の深い建築設計士のNさんが案内してくれるから、何とも心強い。 運転席にNさん、助手席にHさん、後部席に右からGさん、自分、Aさんが乗り込む。Aさんとはあまり話をしたことがなかったが、よく話が弾んだ。Gさんは寡黙なひとであった。 最初に訪れたのは、秋葉神社上社である。山道をかなり登って、第一駐車場まで行くが、年寄りの会だからと、さらに山道を行き、第三駐車場まで車で登ってくれた。ここからは大きな登りはなくて、上社まで行き着ける。その道は杉の大木が立ち並ぶ林の中で、日も差さずかなり冷える。ただ杉の大木に囲まれて、にんまりである。幹回り三メートルを超す「巨木」が何本もある。 尾根を少し登って、本殿にはコンクリートの階段を登る。本殿前には金色に塗られた鳥居が青空に映えて鮮やかであった。振り返れば、限られた範囲だが、遠く遠州灘まで見晴らすことも出来た。先ずは本殿に拝礼する。拝殿の軒にぐるりと干支の彫刻に飾られているのに気付いた。この彫刻は架け替えができるようで、今年の干支の巳が正面にあった。 秋葉神社上社、東の神門   Nさんが見せたかった建物は、東の神門だったようだ。昭和18年の火事で、上社はほとんどの建物を焼失した。火の用心の秋葉神社が火事で焼けたのではシャレにならないが、そこはそれ、秋葉神社は自らの社の火事で、火の用心の大切さを示し、また厄落としをして頂いたとの解釈も出来る。火事で唯一残ったのが、下社から登ってくると最初に現れる、東の神門であった。 この神門は天保二年(1831)に建造された門であったが、2018年の台風で倒れた木で、彫刻などが損傷したため、その後三年かけて解体修理が行われ、朽ちかけた柱を柱接ぎの技法で修覆、屋根は金属板から建造当初のこけら葺きに戻すなど、修覆がなったという。現在は浜松市指定有形文化財になっている。Nさんが委しく説明してくれたが、倒れた大木は側に切り株が二つほどあ...

自分古文書(15)6年A組 47年目の同窓会(3)

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  城崎温泉 川口屋  2025.11.19 今日は、金谷郷土史研究会の見学会で、一日遠州方面を見学して巡った。いささか疲れたので、その話は後日にして、自分古文書(15)6年A組 47年目の同窓会の三回目を掲載する。ようやく同窓会会場の城崎温泉「川口屋」に到着したところからである。 *******************************************************  午後4時前に同窓会会場の川口屋に入った。 川口屋 は城崎温泉街を流れる 大谿川 の右岸にあり、対岸には外湯の「一の湯」や「柳湯」、「地蔵湯」がある。 入口で幹事の森※さんに会費2万円を支払う。出席は19名で、予想していたよりも多い。前回の舞子の出席者はほとんど集まったようだ。部屋は202号室で岸※氏と同部屋だった。隣の201号室に男共が集まっていた。岸※氏とバックを置きに202号室に入った。部屋はそんなに広くないし、そこそこの部屋だった。 6時近くまで岸※氏と話しこんだ。話題は、「東海道夫婦旅」のゴールで泊めていただいた折に聞いた、株式投資の話の続きである。物理学的手法を駆使して、儲かる株式投資の理論を構築したと前回話していた。その後、株価低迷時に損をしたともいう。しかし理論は出来ているので、もう少し整理したら発表できるともいう。 岸 ※ 氏から話を聞いた後、自分も会社関係の製茶機械の代理店の番頭さんに話を聞いて、ネット取引を始めたと話す。今のところ3百万円ほどつぎ込んで1年少しで50万円ほどの利益となっていると話した。氏から実績が聞けるかと思ったが、具体的な話はしたくないようであった。 氏は株価は操られていると考えているようだ。稼ぐのは大口投資家と証券会社で、小口投資家は操られたままでは損をすることになるという。たとえば、小口投資家から巻き上げようとするときは、朝一番に高値を付けて、小口投資家がつぎ込んだら価格を落して儲ける。反対に小口投資家に入ってもらいたくない時は価格を低迷させ、上げるときは突然にあげて自分たちだけで稼ぐ。長く低迷している株で突然大上がりするものがあるのはそんな場合である。これらを理論化して裏をねらえば必勝の株式投資の理論を構築できる。もう一つわかりにくいが、株価は操作されているとの氏の思いは強いようである。 こんな話も聞いた...

自分古文書(15)6年A組 47年目の同窓会(2)

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 円山川、豊岡付近      円山川、日本海へ注ぐ (いずれもネットより拝借) 2025.11.18   午後、女房を連れて、静岡県立中央図書館に行く。上の駐車場が満車で、下の駐車場から歩いて登った。わずかな登り傾斜であるが、公園の中をかなり続いて、身体が悲鳴を上げる。この頃の運動不足がたたっているようだ。 自分古文書(15)6年A組 47年目の同窓会の2回目を載せる。今日の所は、城崎へ兄に車で送ってもらって、水害の話やら、豊岡市合併の話やらを聞き、記している。まだ同窓会は始まっていない。    ********************************************************  1時間あまり話をして、兄に車で城崎まで送ってもらう。円山川の左岸を走りながら、あの水害のとき堤防から溢れ決壊した模様を聞いた。堤防の嵩上げ工事もすでに始まっている。いずれ今走っている県道豊岡-港線も嵩上げされるのだと言う。 今は円山川もゆったりと流れている。このように船も通える昔ながらの川の姿は、川の水が資源として利用尽くされ、水が流れなくなってしまった静岡県近辺の川では見ることが出来ない。いつも帰郷して円山川をみるとふるさとを実感する。 それにしても海まで距離も落差もない円山川がどうしてあふれてしまったのか不思議である。海に出れば当然水ははけるとおもっていたが、日本海にさえはけ切れなかったと兄が語った。流域から集まった水の勢いには想像を絶するものがあったのであろう。  平成の大合併といわれる市町村合併で、この4月1日に、城崎町のほか、竹野町、日高町、出石町、但東町の5町が豊岡市に合併した。城崎郡では香住町だけが、美方郡村岡町、美方町との合併を選んで、美方郡香美町となった。合併後の新豊岡市は人口9万2644人、面積697.6k㎡と、面積では兵庫県内最大の市町村となった。 兄の次女の結婚式で来訪したとき、出石経由で、県境の“出但トンネル”を抜けた途端、“豊岡市”の看板が目に入った。おう!合併したのかと、そのとき合併情報をはじめて悟った。兄はこれで福知山市と市境を接することになったという。福知山というと随分遠い町だと思ったが、隣町になるわけだ。 合併の話では同窓会で面白い話を聞...

「出る熊は撃たれる」これは致し方ないが

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  美食に丸々と太った熊   まるで平成の相撲取り (テレビのニュースより) 2025.11.17 中国の「日本は治安が悪くなった」という口実は、もしかして熊の出没を言っているのかもしれない。 この頃は、毎日々々熊のニュースがテレビを賑わしている。昨年まで、こんな熊が注目されるとは想像だにしていなかった。山の実りが不作というけれども、最近の熊は、山よりも里に出た方が美味いものを食える、と学んでしまったように見える。しかし、これだけ人間の生活領域に出て来たら、動物保護を主張する人々も、駆除に異論は出せないようだ。つまり「出る熊は撃たれる」、これは、やむを得ない事だと思われる。 ただ、熊を駆除するだけであれば、それは殺生以外の何ものでもない。駆除した熊の遺体を、もっと有効に利用することを考えるべきである。シカやイノシシはジビエとして食料にしている。熊はどうだろう。余り美味いとは聞かない。 「熊の胆」があるじゃないか、との声が聞こえてくる。子供のころ、故郷の実家には、タンスの引き出しに、真っ黒い「熊の胆」があった。お腹が痛いというと、お袋が裁ちばさみで熊の胆を削って飲ませてくれた。苦いだけの欠片だったが、「熊の胆」は子供たちには良く効いたと記憶している。山暮らしの小父さんが、町へ売りに来る。ほんの小さな塊りが、随分いい値だと聞いた。 20年ほど前、大代に熊が出て駆除され、解体された様子を写真で見た記憶がある。以下、かさぶた日録の2006.12.7の記事には、次のように書いている。 「熊の胆」となる熊の胆嚢は取り出されて、中に胆汁をいっぱい入れたまま、水の入った風船球のようにぶら下られた写真もあった。胆嚢は想像したより大きかった。この胆嚢は漢方薬の店にかなり高値で引き取られたという。肉は立ち合った人たちに分けられたようで、廻り回って町の料理屋さんにも分けられ、そこで熊の肉を食べたと教えてくれたブログの読者もいた。何はともあれ、熊は無駄に捨てられることがなくて良かった。南無阿弥陀仏。   何か有効な利用を考えれば、そしてそれが幾許かのお金になるならば、猟友会の人たちの手当てや、駆除に使われる公費の補填になるかもしれない。「熊の胆」は、現在でも中国では民間薬として重宝されているようだから、ホタテのように乾燥して、中国へ輸出すればよい。...

台湾有事の高市首相の発言

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    衆院予算委員会で立憲の馬淵澄夫氏の質問に 挙手をする高市早苗首相 2025.11.16 台湾有事の高市首相の発言が波紋を呼んでいる。といっても、中国側だけの反応である。発言に対しては反論で答えればよさそうだが、(もっとも「汚い首を切ってやる」では議論にならない)発言の制裁として、自国民に訪日を自粛するようにと、言ったという。その理由に、日本では治安が乱れているという、嘘の情報をもとに自粛という。そんな嘘は中国人にも見え見えだと思うのだが、さすがに建て前の国である。自粛が高市発言への制裁だと、中国国民にしっかりと説明すべきだと思うが、それも言えない。 なんともまあ、肝っ玉の小さいことであろう。権力基盤は盤石に見えるが、意外と脆いのかもしれない。 幸い日本はオーバーツーリズムで大変な時節である。一番問題行動が多い中国人が減ってくれれば有難いと思う。日本国内の有名観光地には、余りにも外国人が多くて、日本人はとても行く気になれないと言われている。少しでも減ってくれれば大歓迎である。訪日自粛は何も制裁になっていない。歴代の首相なら中国の姿勢にビビッて、効果があるはずなのだが、高市首相は自分の主張は決して曲げない。 自分が現役のころ(20年前)、毎年訪中していたが、 中国人のマナーの悪さは、短期滞在でもよく目にした。 上海の大きな公園に、大きな看板が立っており、何か箇条書きにされていた。通訳の女性に、「あれは何と書いてあるのか」と聞くと、「恥ずかしくて通訳できません」と答えた。後で聞いて想像するに、「ごみを捨てるな、唾を吐くな、立しょんするな、‥‥‥」などと公園利用上の守るべきマナーが書かれていたようだ。上海は中国でも国際的に一番の開かれた町で、公共のマナーの向上に、当時の中国政府は一生懸命だった。 今、そのマナーが改善されたとは聞いていないし、中国人の日本における行動を見ていると、推して知るべしであろう。 あの当時、仕事で会社に来日した、中国の大学を出たばかりの若者が、帰国する段になって、あんな汚い国には帰りたくないと言ったことを、今でも忘れない。 当時、中国では、自分の身体から離れた時点で、すべてゴミで、自分の知るところではないと、そこら中にゴミをばら撒いて、何も気にしていなかった。食堂でも、食べ物の中の食べられない部分は、自分の左右の土間へ落とし...

今、日記の古文書が面白い

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金谷宿大学「古文書に親しむ」講座 開始前の会場 2025.11.15 本日、金谷宿大学「古文書に親しむ」の「初心者」「経験者」の2講座を午前午後で実施した。最近は2講座4時間を一日にこなすと、ぐったりと疲れを感じるようになった。  今、日記の古文書を読んでいる。これが中々興味深い。今進行しているのは、一つは金谷宿の川役人だった松浦幸蔵氏の「歳代記」である。18年前、最初に古文書講座を受けた頃に、確か「歳代記」の後半部分、「明治編」を教材として学んだように記憶している。前半の「幕末編」には、東海道筋に御札が降ることが発端になった「ええじゃないか騒動」が克明に記録されて、全国でも貴重な資料となっている。 この際、原文のコピーを取り寄せ、金谷町史の解読文を参考にしながら、読み進めている。 解読を始めて、気付いたことは、 金谷町史の解読文に、明らかに誤読と思われる部分がいくつも見つかることである。自分の解読力が増したことを示しているともに、解読の大事なことは、自分で読んで違和感のないことを確認することである。違和感があれば、その解読は間違っている。   目標は、解読して今の若い人たちにも読める文にすること。これは決して現代文に書き直すことを意味していない。難しい言葉を今風に直してしまうと、書いた時代の雰囲気、文章の味が消えてしまう。あくまでも、漢字を新漢字に直し、おくり仮名や「てにをは」を現代のルールに直すにとどめる。 その分、難しい言葉には、丹念に語註を付けている。これが自分で決めたルールである。 「歳代記」は、テーマを以って書かれているので、日毎の内容を表題として付け、また、日記には日付しか書かれていないので、各ページの右肩に、年月日を和洋列記して、入れようと考えている。 「歳代記」は、間もなく解読を終わるので、関係の向きに製本して配ろう。おそらく「幕末編」「明治編」合わせてB4判で70ページほどになるかと思う。  続けて、江戸時代中期、静岡の商人硯屋弥惣次の日記「硯屋日記」である。これはすでに五分の四ぐらいの解読が終わっている。さらには、色々日記の古文書のコピーを今集めている。 解読したい向きがあれば、コピーを頂ければ、解読します。

自分古文書(15)6年A組 47年目の同窓会(1)

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   平成16年台風23号、 豊岡市のメイン通り「大開通り」も水に浸かる 向かう先に豊岡駅があり、 向こうへ行くほど水深が深くなる (ネットより拝借) 2025.11.14   「 6年A組 36年目の同窓会 」 から11年後開催された同窓会の記録である。もっとも、この間に、一度、舞子ビラで同窓会があったが、その記録は残っていない。この11年で、同窓会の話題が随分変わっていることに気付いた。そのはずで、同級生も翌年には還暦を迎えようかという年齢である。先生の喜寿の祝いとうたった同窓会であった。(前回の記録同様に、実名は一文字伏字とした。また女性は旧姓とした )  ******************************************************     6年A組47年目の同窓会 (長※先生喜寿祝い)     と き   平成17年6月25(土)~26日(日) 天 候   晴れたり曇ったり 場 所   城崎温泉 川口屋 出 席  長※且人ご夫妻、加※賢二、岸※良雄、田※嘉彦、道※博、西※幸二、     長※政憲、 鈴※俊輔ご夫婦、上※幹代、 坂※ 志津子、 坂※ 浩子、      脇 ※ 美子、森※幸子、小※正枝、 秋※ 智子、もう一人女性、そして自分     記 録 (記録は一通のメールから始まる)  大変ご無沙汰しています。 長※学級のクラス会も近づいて、久しぶりに貴兄のホームページ拝見させていただきました。昨年は、相当中山道を歩いているのですね。また、お茶関係の沢山のHPも楽しく拝見しました。去年行った、鈴鹿山系の湧き水で有名な醒井宿は、特に懐かしく拝見しました。 ところで、今週末の城崎でのクラス会には出席されますか。私は出席です。もし出席なら、その翌日でも一緒に由※君の墓参りに行きたいものだと思っています。確か、松※君がお墓を知っているはずです。私は当日、車で、鳥取周りで城崎に行く予定にしています。 豊岡の 去年の大水害 は、あまりにも大規模で、義援金以外何も出来ずに心配だけしました。 今回のクラス会は、出席することに意義があると思って出席することにしました。 よかったら、返信メールください。 (早速、返信メール)...

掛川古文書講座、現地見学会落選のこと

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掛川城公園の紅葉はまだ早い 色づいているのはケヤキであろう  ケヤキが落葉してから紅葉は進む 一と月ばかり先になりそうだ 2025.11.13 午後、掛川図書館の古文書講座に出席した。来月は古文書で取り扱った地区の、年一回の現地見学会である。今回は、近回りの、竹の丸、河井弥八記念館、天然寺で、いずれも歩いて回れそうなコースである。 それを小型バスで、希望者の半分ぐらいしか乗れないという。そして抽選が行われた。こういう抽選には当たったことがないので、最初から諦めた。こういう抽選に当たる訳がないと、自分でよくわかっているから、当然、宝くじも、馬券も、車券も買ったことはない。 講師が申し込み箱から参加申し込み書を一つ一つとつまんで、図書館の職員に渡し、職員はそれを広げて、当選者の名前を読み上げる。たちまち箱の横に折り目を伸ばした申込書が積みあがってゆく。こんなこととは知らないから、自分は折らないで入れた。これでは講師の手に触っても、つまみ上げられることはないだろう。 結局、積みあがったのは、すべてが折れ目のついた申し込み書で、折り目のない申込書は一枚も、講師の手には触らなかったようだ。今回も抽選に外れるべくして外れた。 小さく折ったものが選ばれてしまうなら、それは平等とはいえない。あらかじめすべて広げてから、抽選をすべきであろう。 もっとも抽選というと、文句のない平等な選択方法だと、職員も思っているのだろう。しかし、抽選には当たり易い人と、全く当たらない人がいることを、抽選をする人は考えたことがないだろうと思う。そんな選択で平等なんてありえない。 まあ、そんなに目くじらを立てることもないが、今回は、天然寺の古文書が公開されると聞いて、ぜひとも見学したいと思った。講師は、場所は近いから別働で参加されればよいと話したところ、職員から、参加者の分しか保険に入っていないから困ると苦情が出た。その通りなのだが、いかにも役人らしい発想で、うんざりである。 結局、自己責任であれば、個人参加を許すのか、許さないのか。あいまいのまま終わった。あいまいに終わったので、自分は天然寺にだけ、自己責任で参加しようと決めた。なに、歩いて行けば、誰に迷惑かけるわけでもない。

「古文書解読を楽しむ」榛原文化センターに戻る

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道ぐろで見つけた小さな花、ピントが合っていない グーグルレンズで検索したら マルバルコウと名前が判明、ならばと    綺麗な写真をネットから拝借 こんな花です    2025.11.12 午後、まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」講座で、榛原文化センターへ行く。竜巻災害の避難所になっていたので、9月の講座は中止、十月の講座は相良のいーらで実施した。今日から榛原文化センターで今まで通りに実施できることになった。 参加は11人中8人、一人は欠席の連絡があった。一人はこの頃、仕事を初めたらしく、出られなくなったのだろう。もう一人のNさんは病み上がりで、体調が思わしくないのだろうか。心配である。  なお、9月に中止にした分、次回との間に実施しようと、会員の皆さんに相談して、12月3日に実施することに決めた。予約を取った結果、12月3日(水)午後1時より、集会室2で行うことに決めた。その次の週12月10日の定例日と2週連続になるが、年内に済ませたいから、少し強行になるが頑張ろう。 講座後、Kさんを誘って、 牧之原市史料館に行く。学芸員のHさんから、平田寺さんから借りる武家文書を、USBへ落としてもらうために行った。(家に帰って内容を見たが、いずれも難物の用だ) 持参のUSBへ落として貰ったあと、今度、 牧之原市史料館で実施の「田沼家ゆかりの名刀、お国帰りプロジェクト」のパンフレットを受講者に配ってほしいと、部数頂く。クラウドファンディングである。目標は三ヶ月で500万円だと聞く。 刀剣には興味はないが、Hさんが主に実施されることであれば、協力しないわけにはいかない。こういうことに使うならと、受講料は貯めてある。1万円くらい協力しようと思う。

「スローライフな日々」(2004~2005日記)8

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  コウノトリの里公園   2025.11.11 古文書講座3講座で、共通に使う「面白古文書」の11月分を何にしようかと、今朝から悩んでいた。候補はあるが、武将や戯作者の書簡で、解読に時間が掛かりそうだ。悩んだ末に、ネットで見つけた「うそ・まこと見立ての勧め」という変わった番付表に決めた。江戸の人は何でも「番付表」にしてしまう。講座に使用したあと、ここでもこのブログに載せても面白いかもしれない。  「スローライフな日々」(2004~2005日記)の8回目を載せる。これで終わりになるが、このあと、2006年1月1日より「かさぶた日録」を始めたことになる。    ******************************************************    2005.8.19(金) 晴れ時々くもり 16日から女房と豊岡に帰郷。今回は電車での帰郷となる。荷物を前もって送り、青春18切符を利用した。お袋は血色もよく、頭もはっきりしていて、安心した。その日の夕方、お盆のおまつりの終わったお墓に参った。 17日は夫婦で長瀬先生宅を訪問した。ご夫婦で待っていてくれて、暗くなるまで話が弾んだ。その頃から肩が詰まって大変辛くなっていたが、女房がよく話してくれた。夕方、雨が降ってきたので家まで先生に車で送っていただいた。 18日はコウノトリの里公園に出かけた。コウノトリは9月24日に5羽放たれるという。さらに今年中に4羽追加して放たれる。あとの4羽のうちの1羽は近くで巣づくりをしている自然によってきたオス一羽のお嫁さん候補だという。兄貴の同級生の係員は豊岡からの親善大使として遠くに飛立ってくれて良いと話す。 首から肩が凝って凝って苦しかったが良く考えてみたら、風邪の症状であった。葛根湯を貰い飲んだら少し楽になった。 19日、名古屋によるつもりを断念して、山陰線を特急で、東海道線は快速と各駅停車で帰った。美貴子と迎えに来たムサシが狂ったように喜んだ。 (「スローライフな日々」終わり)

「スローライフな日々」(2004~2005日記)7

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    静岡の口坂本温泉 (往時)    2025.11.10 明後日の、まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」講座の下読みに一日掛る。安永元年の平田村の御用向覚書である。時代は田沼意次の全盛期である。ただ、虫食いが目立って、文書の状態が悪過ぎる。筆跡も尋常なものではないので、大苦労である。推理と想像の解読であった。 「スローライフな日々」(2004~2005日記)の7回目を載せる。    ******************************************************  2005.7.24(日) 小雨時々くもり 昨日の夕方4時半ごろ、東京で最大震度5強の地震があった。静岡でも震度3と聞いたが、金谷では何も感じなかった。首都に走った激震であったが、数人のけが人と、沢山のエレベーターが暫らく止まったり、一時都内で交通がマヒを起した程度で大きな災害にならずに済んだのは幸いであった。 一方、世界ではロンドン、エジプトと、アルカイダの一派による無差別に一般人を巻き込む同時多発テロが頻発している。これはもう戦争であると思うが、西側にはまだその覚悟がないのが問題だと思う。しかし人を殺す事を指示する宗教とは何なのだろう。イスラムの教えがイスラムに貧困を呼び、貧困を西欧社会がもたらしたとすりかえることで、殺人を正当化している。 朝、知事選の投票に行った後、静岡の口坂本温泉に行く。思った以上に山奥の温泉で、しかし沢山の客が来ていた。入湯料280円が何といっても魅力である。温い温泉で温まらないなあと、いつもより長く入って帰ってきたが、肌がつるつる、夜中まで身体がほこほこして、本物の温泉であった。 批判票の多い中、石川知事は4選を果たした。 2005.7.25(月) くもりのち時々にわか雨 台風7号が真っ直ぐ北上して、静岡県を狙っているように見える。明日の夕刻から明後日の未明が危うそうである。 敦生君の神戸のお母さんから頼まれた“べにふうき”が敦生君を通じて先方へ渡ったようで、昨日女房に電話があった。飲み方を詳しく説明していたようであったが、覚束ないので、自分の記録した「べにふうき体験記」をメールに添付して敦生君に送った。 (つづく)

「百低山」と地震報道

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「 吉田類のにっぽん百低山」の妙義山 (ネットより拝借) この笑顔がうらやましい  2025.11.9 夕方、NHKBSで「 吉田類のにっぽん百低山」の妙義山の回を見ていた。年齢は自分の三つ下の76歳、いつも、取っ替え引っ替えの若い女性と、軽登山を見せてくれる。何とも幸せそうで、ついつい見てしまう。 50歳で気管支喘息を発症して、山行断念してから30年、平らなところは大丈夫と、テーマウォークと名付けて、静岡県の海岸を歩いたり、遠江三十三観音霊場を歩いたり、旧東海道を歩いたり、あげく、四国八十八ヶ所歩き遍路に二度も行った。然し、今でも山に登りたいとの願望は消えない。が、それは出来ない相談のようだ。 そんな訳で、 吉田類さんがうらやましくて 、ついつい番組を見付けると見てしまう。そんな今日の夕方五時過ぎ、緊急地震速報で岩手沖でマグニチュード6.9の地震があったと報道され、「百低山」からNHK総合へチャンネルを変えた。津波注意報が出て間もなく、 岩手沖で津波を観測した と報道があった。これは初めて聞く情報である。東日本大震災以降に、海中に設置された機器が、津波を観測したのであろうか。 夜、息子と話す。昔、会社に勤めていた頃、東海地震が近く起きる、まもなく東海地震の予知が出来るようになるからと、地震予知が出されたら、どう行動するかを、会社を上げて訓練したことを思い出す。ところが、いつの頃からか地震予知は不可能との報道があり、予知を前提にした訓練は立ち消えになった。余地が出来ないという結論になった理由を、しっかりと聞いた覚えもない。 地震報道について、地震学者が多くコメントするが、最近は何もかも、「その可能性がある」という言葉で終わるようになったと思う。地震の予測はこのように難しい問題のようだ。答えを求められる地震学者たちの苦労が思いやられる。  今、地震が岩手沖で頻発しているようだが、東日本大震災の続きになってしまわないか、心配である。地震学者に聞けばきっと「その可能性がある」としか、答えは返って来ないだろうとおもうが。 それにしても、「下山して美人と一杯」、何ともうらやましい。 

「スローライフな日々」(2004~2005日記)6

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    天浜線遠江一宮駅 改札口 で待つ黒柴 一寸目付きが怖い  2025.11.8 午後、「駿遠の考古学と歴史」講座へ出席する。講師に「歳代記(幕末編)」の解読版を差し上げた。一般に読みやすいように、旧漢字を新漢字に直し、送り仮名を新仮名遣いで補ったもので、金谷郷土史研の会員へ配布しようと考えている。今後半の明治編を解読中である。解読は金谷町史の資料編に掲載されているが、文字を活字に置き換えただけで、読み下しもなくて、古文書解読を勉強したものでなければ、なかなか読めない。しかも誤字もあって、意味不明の部分もあった。そこで、解読版を作ろうと思った。現代語訳ではないので、日記当時に雰囲気は残せていると思う。 「スローライフな日々」(2004~2005日記)の6回目を載せる。     ******************************************************   2005.7.5(火) くもり 夜、浙江川﨑の張総経理他3名が日本を訪れ、今夜の宴会に出席を頼まれた。二日酔いで酒の進まない張総経理の手前もあって、酒の進まない宴会に、話がはずんだ。今年は昨年の65%増の売上だと鼻息が荒かった。 そういう中でウーロン茶の話が出て、日本では25年程前ピンクレディが「私たちウーロン茶を飲んでいます」と話した途端、皆んながウーロン茶を買いに走り、一気にメジャーな飲み物になったと話す。中国ではサントリーのペットボトルが逆輸入されてみんなに認知された。ウーロン茶はそれまでは一地方の特殊なお茶にすぎなかった。また、ピンクレディは知らない。中国で当時の若者の間では山口百恵が知られていた。みんなファンだったと話した。柳川君は山口百恵が伊豆の踊り子撮影で伊豆に来ていたときに、三浦友和ととある海岸に遊びにきた。そこに学生の柳川君が来ていて写真を撮ったりしたと話した。 2005.7.13(水) くもり 禎子さんのお父さん、故山本氏の初盆で、女房と森にお参りした後、遠州で半日を過ごした。 まず、天浜線遠江一宮駅をそのまま利用した「笊蕎麦 百々や」で蕎麦を食べる。そこで車で来た夫婦客が 黒柴 を連れてきた。食事の間、駅の改札口に繋がれて待っていた。「こんなに大人しいなら、ムサシも車で連れ歩けるのにねえ」と女...

「スローライフな日々」(2004~2005日記)5

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興津の坐漁荘 2025.11.7   午後、駿河古文書会に出席。帰り、O氏宅へ「緑十字機決死の飛行」を届けた。 「スローライフな日々」(2004~2005日記)の5回目を載せる。     ****************************************************** (2005.7.3の続き)   帰りに興津の坐漁荘を訪れた。明治の元老・西園寺公望が大正8年、興津に建てた別荘で、現在は明治村に移築されて、国の登録文化財として公開されており、跡地が記念公園として残っていた。静岡市では、同じ場所に、建築材料から建築方法まで出来るだけ忠実に坐漁荘を復元したという。昨年春に落成し、入場無料で一般に公開している。(写真は菊池建設のホームページから拝借した) 玄関を入るとボランティアの案内人がついてくれて、建物の特徴を詳しく説明してくれた。説明のいくつかを挙げる。 水に晒した竹、燻した竹、北山杉、杉皮などそれぞれはそれほど高い材料は使っていないが、手間は惜しまずに細工細かく作られている。総工費2億5千万円。数寄屋造りで日本建築専門学校の生徒さんがかなり協力してくれて、その分安く出来たという。 ガラス戸のガラスは昔の手作りの平板を探すのに苦労して、昔のガラスが取ってあって近くの方が寄付してくれた。大きなガラスはなかったので、部分的に機械で作った板ガラスも使われている。確かに側面から見るとでこぼこがよくわかる。 畳や板の間と色々ではあるが、床はすべて平らになっていた。公望公が自分の年齢に合わせて段差をなくする特別注文をしたというが、100年後のバリアフリーを先取りした卓見に脱帽である。 各所の細かい意匠は伝統に則ったものなのだが、新築であるためか随分モダンに感じられた。昭和になって増築された洋間は、曲線を取り入れたドアなど、明らかにアールヌーボーの影響を受けていた。 2階には広い縁のついた和室が2部屋あり、気持ちの良い部屋で下宿でもしたいと冗談が出る。かってはここで西園寺詣でをしてくる国の首脳が西園寺公望と密談をしたのであろう。2階の廊下は鴬張りであった。かっては裏側に砂浜が迫り、漁にいそしむ漁師の姿も見られたに違いない。昭和天皇が皇太子のころ海水浴をされたのもこの海岸である。 下の女中(女官)部屋には政府首脳...